[未校訂]又いふ余が友の知己なる人、所用ありて京師へ登りしに、嘉
永七甲寅十一月五日、歸路にあたり桑名の海を航りけるに
海岸の方を見れば、其音は聞えねど、並松ざは〳〵といふが
如く、枝うち交はして動くさま、什〓大風にやとおもへど、
海上は穩なり。故に乘り組の者みな訝りて、一同にこれを見
るに、暴に澳の方眞黑くなり、今見し方も見えずなれば、這
はいかなる怪異ならんと駭き思はぬ者もなし。當下船長客に
いふやう、これは必津波なり、はや遁る〻に道なければ、人
々覺悟し給へといふ。彼人聞て大に悲しみ、いかにしてかこ
の難を脱る〻ことあらば教てよといふに、船長頭をふり、決
してこれを脱れがたし、た♠天命に任すのみと答へて、彼方
を佶と見る。彼人今はこれまでなりと、所持なせし物のうち
いと貴く大切なるを腹に括して覺悟なす折から、潮(鼕)濤々と鳴
たちて、逆浪のうち返すと思ふ所に、乘たる船底逆浪の撃す
る音して、二三丈船は虛空へ閃めき昇り、暫くして摚と落れ
ば、又逆浪に撃せられて昇ること初めのごとく、かくするこ
と以上五たび、船中の人々は皆活たる心地なく、醉るが如く
痴なるがごとく、俯て彌陀觀音の名號なんど稱ふるものあり
程なく海上穩になり、船僥倖に恙なく向ひの岸に着ければ、
船中蘇生たる思ひをなし、悦びあふこと限りなし。かくて熱
田の驛に上り見るに、こ〻なん大地震にて、家はおしなべて
搖り崩し、或ひは梁棟に壓れ泣叫ぶ男女の聲、耳を貫ぬき膽
に應ふ。さてはこの地震によりて海上津浪せしものならん、
思へば怖ろしかりけるが、今この容を見るに及び、か〻る變
異に遭んより、海上に在しかた遙勝りし洪福なりきと、自そ
の身を祝しつ〻、程近ければ熱田に詣で、猶往さきを祈らん
と、路を抂てかの社へ詣でけるに、不測なるは、その驛より
道の程僅八九町の傍にして、宮居少しも損ずることなく、社
壇に棒し燈明の火さへ消る事なかりしかば、實に神國の貴さ
を心に銘じて感淚を流し、暫時祈念してたち去つ〻、また元
の驛に出、それより次第に下りけるが、道筋すべて淤泥を吹
出し、泥み辷りて歩行がたきに、人家は一樣に倒れ損じて食
を索むる家もなく、舍るべき方もなし。江都まではまだ遙け
きに、いかにして辿り着んと思へば、いよいよ心細くて身の
力だに拔はてたり。左右して漸々に飯を索め、夜になれば崩
れ殘りし家に舍り、辛うじて歸府なしけりとぞ。其道すがら
難儀せし物語り多けれど、繁き故にこ〻には略せり。
この地震のとき、予が知己なる中山何某といへる人、遊歷し
て駿河に居れり。この國は海道にても別て地震の嚴しと聞り。
その日已刻ごろ、中山氏外の方にたち出で人と物語なし居け
るが、驚破地震よといふ間もあらず、兩足痿て鍛と倒れ、起
あがらんとなしけれども、かの小兒が戯れにすなる俵轉びと
いふ齊一、た♠轉々として立つこと難し。當下泥中ゟ煙のご
どく砂のごときもの吹出で、滿面を打る〻ほどに、目口だに
開き得ず、心昏瞑して前後もしらず、暫くして搖靜り、漸く
心地われに返り起上りて四邊を見るに、家みな齊しく崩れ倒
れて、在し容には似もつかず、四方に人の泣聲聞えて、こは
生ながら叫喚地獄へ墮しものかとあやまたれ、心を靜めて篤
と見るに、わが家も崩る〻のみか、三尺ばかり地中へ陷り、
衣類調度も何方にあるか、屋根壁崩れて覆ひぬれば、頓に出
さんやうもなく、只管に呆れ惑ふ。一圓斯のごとくなれば、
一勺の米もなく、これを炊がん器さへ、みな地中に埋もれて
いかにとも詮方なし。殊にこの邊の井僉崩れたり、任意崩れ
ざるも泥吹き入て更に飮べきやうもあらねば、人々飮食を斷
にけり。思ふに江都の地震烈しけれども、かくばかりの事はあらず
但し怪我人の他方より夥しきは、土地に人の多きがゆゑの
み。かくてその翌日に至り、邑の庄屋諸方を募り、漸くにし
て米を得つ、粥に煮て施したれば、始めて喉を潤せり。この
中山氏も、その翌日粥を啜りしは未刻なりとぞ。この頃、駿
府に居たりける余が親族の僕由藏なるもの、此地震のこと
を語りしをきくに、驚破地震といふ程こそあれ、蔀格子もた
ちまちにめり〳〵と破れ摧け、戸障子倒れ、椽さきの東柱一
時に倒れて、外に出んとすれど足も立ず、漸くにして轉び出
しが、頻に震ふこと烈しければ、傍にある大木の軈て一抱も
あらんとするに抱き着しに、その大木の幹大に搖るによりて
手を放たる〻こと凡そ三たび、宜なるかな、この大木搖れて
伏すときは枝地上に着き、仰ぐときは半天に至る故に、過て
この幹に打るれば、身體微塵に成ばかり、その危ふさ譬ふる
にものなし。然るに高運にしてその恙なきことを得たり。直
に地上に轉びしものは、さらに起上ること協はず、當下大地
大小に裂て、淤泥沙をふき出せば、遍身泥に塗れて面目を分
たず、震止みてやう〳〵に起上るといふといへども、た♠眼
暈きて行步かなはず、大に醉る人のごとし。然るにおよそ半
時ばかりにして、また搖返しの來ること、初めに競ぶれば、
や〻緩柔し。夫より時々刻々に震ふこと數を知らず。因てお
もふに、江都の地震さしも猛裂なりといへど、駿府の地震を
十分とするときは、七分ばかりにや當ぬらん。いと怖しきこ
となりと語りき。