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| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ID | J0301616 |
| 西暦(綱文) (グレゴリオ暦) |
1847/05/08 |
| 和暦 | 弘化四年三月二十四日 |
| 綱文 | 弘化四年三月二十四日(西暦一八四七、五、八、) |
| 書名 | 〔蘆沢不朽手録〕時雨の袖 |
| 本文 |
[未校訂]○弘化四丁未三月廿四日信濃国大地震にて、同国更級郡の内岩倉山拔崩し、麓の犀川に堰留、追々水湛充満し、川上湖水の如くに相成、然る処四月十三日其場所押切、川下の家を押流し、人馬の損亡夥しき由風聞に付、{〓}{〓}古郷も此川未にて常に水損場所故、兄弟親類の安否を見んと、公に三十日の暇を相願候処、願通り被仰付候に付、五月五日に江戸出立致し、中山道え掛り、日を追て七日に高崎駅を越え、草津路にかゝり、八日に同所山本十右衛門方に泊り候処、十右衛門宅にて見受候届書のうつし左の通り、○大溜り大手平林村、岩倉組、向水内組、花倉組、右土手長サ二十町余内高サ凡五丈程水溜り場所七里余、水内村より上は松本領分今村迄同様、一里程拾六町ほどの場所も有之、水溜りと相成候、村数三十五ケ村、○小溜り安庭村、向長井村大手長サ小溜り共不及申、大溜り八分程押切、最二分程は湖水に相成候様子に御座候、当時水中村方三ケ村水溜り里数三里程御座候、以上、未四月十五日山中{〓}松代役人中野御役所右は中野御代官所へ被遣候書状之冩○山中大溜小溜共十三日一同に押切、小市村は皆押流れ、家五六軒程相成候様子、善光寺の方は吹上迄向の川中島は川口になり、石計りの様子、松代の城裏迄水付、荒押町迄上水余り向ふはあめの宮迄上水余り、松代手前島打峠は向ふ手前共、山根通り家多分流れ、人数は不知、夫より大宝辺は皆小岸辺一円に水にて、岡崎の石屋迄水つき、夫より牛島綿内辺押流し、綿内近辺は家根の上迄水つき、村々大流、誠に目も当られぬ大{〓}に御座候、又是より川下小布施迄矢島羽場村は家軒計り押流し、箪笥長持櫃の{〓}基外諸道具流れ候事夥敷、其下柳沢村川岸通り皆押流れ、岩井村辺は山の根迄水一盃、又飯山向ふは木島下迄に准し、何程損じ候哉不知候、先は見聞の分荒々申上候、四月十八日信州渋温泉いせや新兵衛上州草津山本十右衛門様中沢善兵衛様○例年五月頃は、草津温泉に入湯の旅人多集り候由に候へ共、地震故か甚淋く、草津辺は是迄の地震より嚴敷と思ふ程の由、夫より九日に此処を出立致し、渋峠を越候処、残雪処々に有之候、此峠は七里にして其間人家更に無之、最麓よりの出茶屋二軒御座候、是も夏の中計りにて、九月下旬よりは雪降通路無之由、扨比峠の茶屋より道連に相成候もの、飯山御城下の川向ふ、安田村の{〓}商人の由、其者の話に、地震の日越後の高田より、魚荷五荷相廻し、飯山{〓}町親方の所迄は金子六両二分請取、其日は遲く着致し、未だ飯前にて筈風呂に入んと片足入候処へ、跡へひつくりかへされ、地震とは露知らず、誰かいたづらせしと覚之腹立、己めと思ふ内に家は潰れ、風呂場は軒下にて外へひつくりかへされ候故、命助り候、扨素裸にて逃出し候処、所々より出火にて一時に燃上り、闇の夜ながら晝の如く相成、地震は止ず、家々の潰れる音、人々の泣叫ぶこゑ、夥敷、其恐しきこといふべきやうなし、親方の内も家内不残焼死申候、私は船場のかたに彳み夜を明し候処、平水に候へ共、地震にて浪五六尺も上り、{〓}川向に自分の家御座候処、是も潰れて見え候間、両親妻子も有れば、心やたけに思ひ候へ共気をもみ候ばかりにて、中々渡り越すこと叶はず、其内段々に空腹に相成候へ共、飯山中に飯一盃貰ふべき処も無之、此時つく/\考へ候に、昨夜風呂へ入らずんば、親方の家内一同に焼死可申、迚も此命はなき物にして此縄をたぐり越えて、両親妻子の安否を見届んと、渡し場の縄をたぐり越候処、天窓の上を浪五六尺も越候へ共、此縄さへ高さねと存じ、遂に向ふ岸につき、自らの宅へ走付候処、家は潰れ候へ共、家内中無{〓}にて逃出し候由にて、先大安心しつゝ、夫より潰家の中より飯櫃をやう/\取出し、少々の飯を親子五人にて食し候と申聞候、扨其日七ツ半時頃渋湯へ下り、私は同所津はたやに泊り、右の者は自分の村迄かへり候、其翌日通り筋に付、同人方へ寄遣し候処、安田船場の茶屋裏に小屋を致し、是に住居仕候よし承り候故、面会不致候、○渋峠辺は未だ地震に崩れし所も無之、渋温泉より下り候ても潰れ家など見え不申、最も地震が余程烈敷いたし候由、翌十日同所出立、夫より千曲川へ近き程潰家多く有之、岩井村より安田村迄の内田地割裂、其処より泥砂を吹出し、又夫より南方の山所々崩れ、樹木も押出し、安田の横引といふ処などは、山上より大石まろび落、田畑へめりこみ、又安田は荒増潰れ、其上出水にて土手を押切、田地も余程損し候由、扨我{〓}在所柳田村は是より安田の渡しを越え、夫より飯山御城下は順路にして、程近き義に候へ共、地震にて不残潰れ、其上出水にて押流し候由承り候間、先地震の小さきかた出水も無之処、野沢温泉の手前なる中尾村、妹聟浅石衛門方へ参り様子承り、其後柳新田村へ趣んと存じ、安田より天神堂村へかゝり候向通り中尾方へ罷越候、其道筋の親{〓}笹沢村林石エ門方へ相尋候処、同人家跡山拔出水の体にて大谷と相成居候に付、其本家油屋七石エ門方へ参り候へば、何れも留守にて老母と子供斗り居、此老母は我{〓}が父方の続柄の者也、其内林右衛門も参り候間、同道にて同人の仮宅へ参り、委細承り候処、地震の夜余り夥敷音致し候間、戸を明け表へ出見候処、最早家よりも高さ水頭の上へ押来り候故、家内の者へ声を懸けながら逃ぬけ、私斗り命を助かり、妻並八歳の忰、其外女子二人外に中野の商人巳之助といふ者、都合七人家は勿論何一つ諸道具も不残押流し、実に夢とも何とも可申様も無之、村中のもの打寄、砂の中より女房と女子二人下女二人は掘出し呉候得共、八歳の忰と中野の商人の死骸は一向相知れ不申候、定めて両人の死骸は大川迄も押流され候義と彼存候、当村は地震に潰れ候家も無御座候八共此村より七八丁山の上に小菅村と申所、大杉の池と唱候一里廻りの池地震にて湧出し、私一人大{〓}に逢、五人の葬礼を揃へて出し候と、仮宅に位牌をならべ置、香花手向剃髪して廻国にても可出と存候へ共、左候ては此仏達無縁に可成と存じ、彼是心も定り不申如何いたし可然哉と、落涙ながら申聞候、{〓}、此林右衛門は、笹沢村にての物持名主七石衛門の弟にて、往還端へ茶店を出し、諸品沢山仕入置候処、右池拔にて石の仕合、夫より内野村新田村の下辺千曲川迄、右の出水にて田地夥敷損じ候、此辺は是迄越後川浦御代官御支配之処、当春より中野御代官御支配に相成候由、○十日の夕方、中尾村浅尾右衛門方へ着致し候処、此処にても当村方は至て地震軽く候由、同人宅抔は壁落候位のことにて、何れも無{〓}に付、大安堵仕、其上外兄弟の様子承り候処、家は潰れ候へ共、何れも怪我無之趣に付、猶以安心いたし候、扨先隣村野沢の温泉へ至り、入湯帰り、其夜姉の話に、仕合せ成かは忰喜太事、去年三月より善光寺大門前綿屋仁左衛門方へ遣し置候処、先方にても至極気に入候へ共、当春自分として頻りに帰り度由にて、この三月四日無理暇を貰ひ帰り候処、廿四日の大地震にて、綿屋の家内不残焼死候由、是は不思議の大災をまぬかれたりと申聞候、又浅右衛門の話に、野沢村の若者、地震の節善光寺にて迯出さんと致候処、何者か柱にくひしめられ居、其跡より大火燃来り如何ともいたし方無く体にて、財布を手に持、誰に成共與へんと呼懸候間、夫を貰ひ帰り候処、其内に金百両余り有之、余りの大金に付、其旨御代官所へ訴候処、其者へ備り候金子故、勝手次第との御沙汰有しよしにて、その金にて法事致し候と申聞候、扨十一日同人方に逗留、其翌日十二日中尾村より関村の渡迄戻り、此渡を越え大倉崎村に至り候へ共、此村方は潰れ家も見えず、それより我{〓}が故郷柳新田村に至り候処、家並に潰れ、三十三軒の内、二十六軒潰れ、其外物置土藏{〓}荒増潰れ、本家の残り候は七軒にて、是迚も柱折壁落傾き半潰に御座候、其上四月朔日岩倉山押切犀川の出水にて、取崩し片付置候、柱茅{〓}も多分に押流し、何れも葭簣張の堀立の小屋に住居致し、少しの雨にも雨漏いたし、誠に目も当られぬ有様に御座候、乍去村内出火無之故、大潰れに仕候ても即死五人馬一疋死し候迄にて、外に格別の怪我人も無之、殊に田畑{〓}存之外に損じ少く候故、村中の者是にて力強き様子に御座候、扨我{〓}家元の吉右衛門宅は、水鼻にて家潰れ、材木小屋も押流され、潰れ残りの親{〓}方へ同居仕候仕合に候得共、兄弟共無{〓}にて先以安堵仕候、其夜は同居之親るい次郎右衛門方に泊り申候、○柳新田村諸親{〓}又友達等集り風聞承り候処、地震の節はやれ是れといふ間もなく、潰れ候家も有之、又逃出候其跡にて潰れ家も有之候へ共、多くは出る間も無御座、皆家の下に相成助けて呉、たすけてくれと大声に呼はり、又は子供のなき声にてそここゝより入らんとしても、潰れ家の事にて急に入る事叶はず、其中に手強きものは家根の茅を引拔き、又は壁をふみ破り先一軒の者を助け出し候へば、又其隣の家へ至り、其如くにて出し、追々人集り村中互に助合、馬迄も出し候由、彼是働き候にも、真の闇にて其上地震は強く、狼狼歩き大地の割間へ足をふみ込むやら、又は物につきあたり怪我するやら、殊に潰れ家より馬を引出すには、余程穴を大きく明ざれば出しがたく、家根の茅をぬき夫より竹や木をぬきふみ折、其中にも大きなる柱などは、中々大勢かゝり候ても自由にはゆるがず、指当り刄物はなく皆々詮方なく潰れ残りの家へゆき、鎌鉈鋸の類何とて刄のつきたる物を借んといたし候処、是地震にて家内中逃出し内はまつくらやみにて、物の有処もしれず、其上に地震は止ず、今にも又其家も崩れ人体にて、みし/\ぐら/\致し、中々恐しくて容易に入ことならず、夫より八ツ時頃漸く地震も寛に相成候て、乎ん手に潰れ残之家より提灯行燈燃など引下、なたのこぎり持{〓}り大柱棟梁{〓}を引切、穴を開けて漸く馬を助け出し候由、最初地震の節は稲妻の如く光り、北の方にて山鳴つゞき、或は家の潰れ戸障子の折くだくる音、又は大地裂、実に天地がひつくらかへり此世が滅するかと思ふほどにて、其有様女童などは目にふれ候て、膽を消し絶入候者多く有之由、夜分にて殊に真の闇のことゆゑ、皆々驚怖しながら、先夢の心地にてふるへ/\、其場を凌ぎ候趣申聞候、○山中岩倉山拔犀川を堰留、其川上湖水の如くに相成居候由に付、何時押切出水可致哉と皆々用意致し、佛檀其外地震にてくだけ残りの諸道具、又は俵なども山添の村方へ相頼み、村々役元より堰留場へ度々見せに遣し候処、巖石にて締切候間、决て押切候気遣無之抔申者御座候迚、中頃安心致し居る処、四月十三日の夜半頃出水にて、大川筋に水見之小屋を懸、村々より晝夜番致し居、其方より知らせの貝を吹来り候へば、夫より村々早拍子木を打ならし騒ぎ立、猶又銘々夜中に諸品を山添高場へ持運び、又村内にても地形高き所へ積上候処、追々水押来り土手向ふは水充満したし、翌十四日の朝大土手所々押切て、我{〓}村{〓}に戸隠小{〓}此三ケ村之{〓}{〓}水{〓}り、此辺二里四方程湖水の如くに相成、いづれも山添村方へ逃退、其体見受候処、箪笥長持櫃或は酒造所之六尺桶、又は家舟人馬其外諸具{〓}流れ來る事夥敷、殊に哀れなるは家の棟に取付ながら、助けて呉/\と声を嗄して呼わりつゝ流れゆく者、尚扨右様の出水にて我{〓}村を初め、戸穏小沼此三ケ村は、河原亡所にき可成哉と存じ案事候処、一且出水故水引早く候間左程田畑も押じ不申、且只大麥小麥{〓}用に不立侭之事にて、薬種も可成に役に立たる此度の大{〓}儀、飯山御城下に焼失火前之町人、墾意之者の眼前に焼死、又中曽根中條村{〓}山拔にて、数多の人々生ながら土葬に合候に引くらべては、村々火にも無之、死人怪我人も少く、殊に差当り夫食の怨もなく、時節宜候故、田方も皆植付先は心丈夫に候、併此葭簀小屋にて今年雪は凌がたく候間、銘々物置位の物一ケ所建候故寄々候へ共、大工なども所々の事故、中々急に参呉不申、是には当惑致し候由申聞候○地震之節我{〓}村即死人は、名主喜兵衛方七才之男子一人、九郎兵衛妻、三左衛門方にて老母{〓}に孫両人、都合五人にて、其外怪我人は十二三人も御座候へ共、是{〓}は追々快方に相成候由、然処右三左衛門にては、一軒にて三人殺し其愁ひ深く、出水の節村中の者不残、山添村方へ逃退候得共、三左衛門壱人は最早溺死いたし候ても苦しからずと申立のき不申、親{〓}ども打寄いかほど進め候ても聞入不申、其内大土手押切候間、是非なく打捨迯退候由、併忰と娘はまさかに親を捨置逃る事も出来兼、覚悟致し残り居世話仕候由、尤三左衛門宅は地形も少し高く候へ共、出水に限りも無之事にて、殊に夫より高場の者も皆々迯退、戸隠小沼{〓}三ケ村にては、家数百五六十軒程の内、唯一人残り居候者無之処、三左衛門方計り湖のわくが如き中に残り居候事、全く三人も殺し愁の余りには有之べく候得共、思ひ切たゐ事にて、出水猶二尺も増候はゞ、家も流れ候由也、扨々危き事也と皆々申聞候、○出水後村々にて流れ参り候、諸道具留置水引候後、川下の村々役人より川上筋の村々へ触廻し、諸道具吟味之上捐戻し遣し候由、其内高井郡天神堂村にては、山中新町の役箪笥最大切成物入置候旨差戻し遣し候処、厚く札を受候、又中には箪笥の中より金斗り取り指戻候者有之、其事露顕に及び所拂に致し可申抔、名主に叱られ候ものも有之よし、また浅野村にては箪笥の中より衣類取出し見候処、其中には、未一度も手を通さぬ様なる能き女の小袖数多く有之、いづれも濡て居候に付、干て遺すべくを存じ、取広げ候処へ色青ざめたる女の歯を真黒に染たるが、いづくよりか來りけん、右の衣服を一々に改め見て不残、又満水へ入千曲川に流しけるが、忽ち形は消て見えずなりければ、人々驚き奇異の思ひをなしけるが、夜にてもなく白晝の事なれば、格別気味悪敷も思はざりしが、此事大評判と成てける故、猶又村方にて承はり候処、実説のよし申聞候、我等古郷村方組合八ケ村潰れ家即死人左之通一、柳新田村家数三拾三軒、本家計りも廿六軒潰れ即死五人、一、戸隠村家数六十軒余之内、本家計も三十軒余潰れ即死人七人、一、小沼村家数百六拾軒余之内、三十七軒潰れ即死十三人、右三ケ村は地低川添にて、出水にいためられ候、一、上水沢村○原本以下{〓}字一、下水沢村家数五十軒程の内、三軒潰れ死人無之、一、大塚村廿七軒の内、四軒潰れ即死二人、右三ケ村は山添也、一、大倉崎村潰れ家遺れ、即死怪我人{〓}も無之、一、上野村、右同断、右二ケ所は地高之村也、{〓}右八ケ村は飯山御領分続にて、中{〓}御代官高木清左衛門様御支配なり、○十三日飯山愛宕常福寺へ墓参致し候処、本堂洛{〓}不残潰し其侭有て、和尚初小屋に罷在候、墓所も石碑倒れ、或は碎候も有之、扨御城下之分は、此愛宕町町計り五六軒残り、其余は端よりはし迄一軒も不残焼失致し、本社も荒増潰れ適残候分も半潰同様之由、又御城山も地震にて崩れ候哉、余程地低く成候との風聞なるほど、我{〓}前に見馴たるにより余程低く見え、其外御櫓並御門塀{〓}の倒れ候事夥敷、又御家中の住居御長屋{〓}も荒増潰れ、其上焼失にて御家来分計りも八九十人即死の由、町人は三百余人即死の由に候得共、他所より入込居候者など、入候はゞ中々三百や四百にては無御座由風聞にて、此度之地震飯山様之御領分中、何れ嚴敷山崩にて、何ケ村も家は勿論人馬迄土中に相成、又千曲川続は出水にて押流、御損毛の程{〓}計御座候、○飯山町焼失後、死骸夥敷寺々へ持込、其侭差置帰候処、詩寺何れも潰れ、又は焼失死人怪我人{〓}も有之、無人混雑中にて致し方無之、其侭差置候処、暖気に相成、死人の死骸臭気鼻を穿ち、寺々にて是には当惑致し候由承り及び候、○当御城下焼失後死亡人の靈魂にや、夜な/\助けて呉と呼声いたし候とて、寺々より僧侶数多毎朝町中を経文唱へ歩き候由、其利益か追々声も{〓}らぎ候由、○上南善寺村角左エ門は、我{〓}母の里方にて、此日飯山より罷越候、爰は飯山より善光寺への往還にて民右エ門新田といふ所より、沢辺を遙北へ登り、甚深山の家に候処、此辺も地震きび敷、山々崩れ大地割裂、地震後数日里方への通路も不成、甚困り候由にて、南善寺村にては五軒潰れ六人即死、上南善寺村にては一軒も潰家無之、殊に我{〓}親{〓}共何れも無事にて大安堵仕候、併村中に家の主計居候て一軒も無{〓}の家無之、柱折壁落或は傾き内外より突かひ棒いたし、此侭にては当冬之雪は凌がたきとて、何れも{〓}き居候、此夜角左エ門方に泊り候、角左エ門は三年以前相果候て、当時は十六歳の忰直藏之代に御座候、○南善寺村與五左エ門は、角左エ門弟にて我{〓}従弟に御座候、多病にて此節床にふし居候、殊の外{〓}ひ、我{〓}も此体にては余命も{〓}計、扨々世の変りたる時に至つては、人の心も替るもの也、此度の地震の有様委敷御話し申さん、江戸の住宅の我弟共に咄し呉れよと物語候処、左の通りに御座候、此度御料私領共、地震嚴敷、村々は家潰れたる者、廿日丗日程銘々地所を撰み小屋を掛、其前に捨竃を拵へ煮焼いたし野宿せし也、其節本家へ行は道具を持来れと子供等に云付るに、おれはいやだ我もいやだと本家へ入ことを首の坐へでも据る様に覚候と、おとな迄も右様なり、是迄夜今などそれ戸を立よ、窓を〆よ、そこ爰の〆リ致し候へば、子供など安心して寢入候に、此度は〆リなき星のきらめく青空の下又雨の漏小星にねれば、安心して高臥息イビキかき寐入候、是実に地震の恐ろしきことが身に染み心に徹したる也、又其節人々寄合に咄しを外よりつく/\と聞居候に、ある人は親を殺し、此人は子供を失ひ、誰々は家を潰して仕まつたなどと、何か手柄でもしたやうに、元気能咄し候、其中に家内中怪我もせず、我家も潰さぬ者は、地震の咄には面目なく、片隅へ隱れ指でも加へて居る様子也、是常の人情と替りたる処也、又は地震にて家藏も残らす潰し、其上出火に諸道具等も不残焼失致し、両親妻子も皆殺し、自分一人生残り候者は、又地震など何恐しからず、最早天地ひつくりかへつても、強きことなしといふ族も有之、是{〓}は狂気せしにも無之候へ共、此上は何一つ守るべき物もなく、世に頼みなき故の事、又飯山新町の米屋杯は、御城下一番の物持にて、数多の土藏に金を掛、ふだん上職人を入置、火のことにおいては如何なる大火にても焼る気遣無之処、此度の地震に揺つぶされて焼候間、刀剣{〓}抔は数多所持にて、一と腰六七十両位の品々は幾らも有之候へ共、皆々焼身となり何の役にも立ず、其{〓}外古金を初め数多の宝物悉く焼失致し、土藏一と戸前も不残焼失、味噌をもらひてなめ居候よし、併田地も沢山に有之候へば、又始終は差支も有まじく候へ共、先差当り右{〓}の事、又同く伊勢町の角万抔も米屋に続たる物持にて、近頃居宅迄土藏作に致候処、此度ゆり潰されて焼候上、家内中不残焼死候由、元の通茅葺に致し置候はゞ、家根を破りても迯出され可申候に、火事を気遣居宅を土藏に致し、却て家中火あぶりに合候、私抔も米屋も出入之上、上左官ヨキサクワンを頼み近頃土藏へ手入致し、先火事には大丈夫と存し居候処、見込違震ひ盡され、不残壁落傾き候て、地形は崩れ致し方無之、家も十年以前新らしく建候処、かやうに柱析れ壁落戸障子{〓}も不残折れ、中々此分にては此冬の雪は凌きがたし、如何に丈夫に致置候ても、天地のなす処いかんとも致方無之、我{〓}も大地震といふことを知らぬにはあらず、近頃にては越後三條の地震には、大地割裂其処より火炎吹出し潰れ、即死焼死人{〓}も夥敷よしに承り居候へども、天は咄に聞恐ろしき事と思ふのみなりしが、此度は{〓}に引受其恐しさ味を知たり、既に此椽下も割裂、又隣家の前は割間より泥を吹出したり、善光寺、又飯山抔は、家の下より火炎吹出したりといふ、田畑は不及申、山は拔落、或は裂崩れ、又麓へ自然とえみ出し、低く成し山も有之候、万代不易の山すら、かヽる大地震にては、右様に変地する事なれば、况人家の潰れ、人々の死亡などは有べき事也、名聞に住居をかざり、美服を好む事愚なり、只雨露を凌ぎ日用さへ叶へばよき物と、実に此度こそ発明いたしたり申聞候、○十四日南善寺村、我{〓}妹聟清左衛門方に泊り候処、妹の話に清左衛門兄足俣村六藏並妻子共二人家潰れ、泥冠れに相成、何れも死体不知、然処其家に鷄五羽有之候内、一羽は助かり居候処、村中の人々寄合、其鷄をおさへていへるは、其方の主人不残此泥の下に埋まれ、死骸不知、困て其方主人の有所を教へよといひつゝ鷄を放しければ、泥押の上にて羽はたきして時を作りける故、人々集其処を堀けるに、不思議なる哉、其下に妻と子供二人の死体有けるとぞ、猶また其鷄にいひ含め能くぞ教へたり、去れ共主人六藏の死体不出、因て又六藏殿の死体の有場を教へ呉よ、左有時は此緩其方を目をりマヽを掛け、飼遣し可申といひきかせける処、又々泥押の手前の所にて時を作りけるゆへ、早々其処を堀りけるが、此場所至て泥ぶかくして何程掘ても、死体の出ざること故、皆々あくみして果、是はならくの底へ沈みつらんといひつゝ掘止ける、右六藏の四十九日の日也とて、其翌十五日清江衛門娘秀、足俣村親{〓}へ呼れて参り申候、右場所のはカ山拔といふ程にても無之、六藏家より上に田有之、地震にて其田拔出し候て仕合のよし、○十五日南善寺村より柳新田へ帰路の節、又飯山の常福寺へ立寄、小屋にて寸志の法事を致し候、此日当寺潰、本堂之家根茅斗取崩に付、柳新田上りも親るい九兵衛、九郎左衛門、惣左衛門、九郎兵衛、我{〓}家元より吉右衛門も参り、飯山御家中柏原牧太殿其外檀中都合廿五六人打寄候処、我{〓}も此度墓参第一の願にて、地震見舞に故郷へ下り、今日は親の命日にして此日に当り、御仏の家根かた付に合こそ幸と存、夫より名前帳へ柳新田村利右事芦沢逸藏と書付終はり伝候、扨此日殊の外暑気強、晝後より何れも疲れ、木蔭抔に休み寢入候者も有之候へば、其様子にては中々今日中に茅取かたづけ仕舞がたき体にて、和尚も手伝の者へ手をさげ頼むやうに致し働かせ候得共、何れも是迄毎日地震潰れの跡かたづけにてつかれ居候故、兎角仕事埓明き不申、迚も此分にては今日中には六ケ敷思はれ候故、我{〓}密に工夫を廻らし、門前の和泉屋と申酒店にて、酒三升携來り和尚に仕せて披露し、手伝への者へ茶のみ茶椀にて其酒を与へ、夫より又我{〓}も手伝居候処、皆々大に元気を得て、其働く事夥、中には江戸の御土産にて力つきたりなどいひつゝ働き出しけるゆゑ、暫暫時の間に不残取崩し、たばね積上肩迄もはき寄風呂に入て帰り候、○此日柳新田へ帰り九兵衛仮宅の小屋に泊、翌十六日は同村武左衛門方え泊、十七日又中尾村浅石衛門方に暇乞に参り、十八日浅右衛門案内にて地震崩所見物に出候、○中曽根村山拔泥押にて、三拾五軒の内廿五軒泥下に相成、右村人数百八拾人程の内、七拾六人即死の由、死骸出る者三拾人程にて、右泥押之場所壱丈五六尺程掘、家根出茅をかき破、其下より死骸出候よし、其場を見受候処、佛橿道具其外砕け候抔有之共、下用地へ山より木を押出し植付たる様に相見え、又其辺沼に成候処も有之候、○中條村八十軒程の内廿六軒潰れ、其内十二軒は泥下に相成即死五拾七人、又善光寺へ参詣にて十二人焼死、外に馬八疋死、右之内拾五人は泥下に相成、死骸不出候由、右村方の後山にアキクボとか{〓}候所より拔出し、凡八九尺程の大石を始として、石砂泥交り押出し、上より下迄凡廿丁も有之由、其様おそろしき体也、○当村藤右衛門方に相休候処、其向家辰彌事、地震の夜村内へ風呂あびに行、其跡にて自ら家泥下に相成妻{〓}子供三人死骸不相知、翌日より毎日屋敷近辺、其外所々掘返し候へ共、更に死骸不出由、右辰彌の兄利吉江戸深川富吉町に住居道具屋致し候処、此度之変を聞見舞に参り居り、直に我{〓}に申聞候、此藤右衝門宅も、家の裏へ泥押掛、可へ傾き前より突かひ張いたし置候、○笹川村十八軒泥下に相成、四十三人土中即死、此続南條上新田二十人泥下即死、右村方後ろの山凡二十丁程は谷上所々より山拔いたし、一同に押出し、其中に一と抱二た抱も有之候埋れ木抔押出し、其谷幅せまき処抔は、四五丈上迄左右に押出したる時の泥付有之候、○右山拔の村方は、何れも飯山御飯分にて、信濃越後国の境富倉峠の麓也、飯山より高田への往還にて、此道筋一尺二尺又は五六尺も割裂、又山々崩、谷々押出し、是が爲に通路絶、此間道普請出来、往来致候由、此峠所々拔出し割裂、自分と麓へこけ込下り候処、以前より余程低く相成候由、又此南山長峯なども所々筋通り割裂、其麓村々へ自然とゑみ下り候哉、所々寄六七尺又は一丈程も、村々の壁敷辺地高に相成候処有之由、依て此七峰も以前よりよほど低く成候由、麓村のもの申聞候○右山拔村々之辺、田畑も満足の処無之、畑の割間杯へ芥其外人多く運入、其上へ土を入、男女共{〓}こはんを以て打付、又田も高く也低く也、何れも変化いたし候間、広き田は何枚にも致し出来次第苗を植付地所繕最中に御座候、○此日富倉峠に相休候処、茶屋の主人の話に、南條新田八藏といふもの、地震の日高田より帰り、酒に酔て山を下り候処、地震に搖倒され候へ共、其地震は気も付ず狐のなす事と思ひ、酒の機嫌にて何ぼ酔てもわいらに化されるおれではないといひながら、立てはころび/\漸村へ下り候処、我家は泥冠りになり女房と子供三人是が爲に死す、八藏ことは斯とはしらず泥の中をふみ込/\、家の方へ行んとせしが、泥ふかくして中々行事叶はず、是非なく跡へ戻り候処、最早酔は覚め候へ共、近所の大変何マヽ夢の様にて、又狐に化されはせんかと思ふやうなる心ちせしが、翌日に至り地震も止ず近辺の家も数多泥中になり居、誰も彼も見えぬといふ、昨夜よりの騒ぎ夢にてもなく、狐に化されしにも非ずと心付、女房と子供二人死骸ほり出し候へ共、一人の子死骸出ずとて毎日/\そここゝを掘返し候へ共、一向不出、其後子供土死骸狗に喰れて天窓の体斗り有を山にて見付、定めて此子は我子ならんと藁つとにして持帰り葬り候由申聞候、○十九日も中尾村に逗留致し、野沢温泉にて湯治致し、新湯へ入、近頃の出来の観音山へ登り候処、三十三番之石の観音不残倒れ有之、新湯辺石垣所々崩れ、大に損し候へ共、潰家は見え不申候。○廿日中尾村出立、浅右衛門忰嘉吉笹沢村迄送り呉、其夜には七右衛門方に泊り候処、別家林兵衛も参り池拔にて家内七人即死致し、家は勿論家財其外諸色商物杯は運悪敷、其前日に何々を仕込、何を買入置候村の見世には過たる程の諸色也、金は五拾両余り、夫も誰の金、彼の金にて、我金にもあらぬと預りの帳面など取出し見せ、然るに煙草一つふく吸ぬうちに、家の路は大谷となり、ならくの底へ打込れたりと、不運の災決{〓}話しを繰返して物語、又七右衛門は其池拔にて本家の前に油しめの家別に有しを打流され、油も何程損致し、其上田貮拾俵程も取余し、是も石河原になしたりとて、夜もすがら{〓}渋はなしに挨拶も気の毒、彼も是も聞に忍びざる事共に御座候、○廿一日笹沢村出立、柳新田へ帰り、其後は同村源右衛門方の仮住居之小屋に泊、廿二日喜右衛門方仮家に泊、廿三日には勝右衛門方仮住居の小屋に泊り、廿四日作右衛門方に泊り、廿五日吉右衛門同居次郎衛門方に泊、扨こそ爰と地震潰れの堀立小屋へ呼れて参候処、何れも出水節碎残の諸道具{〓}は山添之村方へ相預、いまだ仮小屋にて置候処、置処も無之、其侭預け置只々小屋にて煮焼して、家内食するだけの道具、夫も破たる茶わん、其外とても不取合の道具のみ、以前に引かへ其不自由さ見るも気の毒に候へ共、其中にて酒よ肴よ蕎麥切は毎度にてあきつらんと強飯又は牡丹餅など拵呼も有之、又逢事も難計不自由ながら江戸への咄の種に小屋へ泊り候へと、何れも留候処、我{〓}は却て不自由が馳走なり、殊に小屋は地震の気遣ひなしと、名々の小屋に泊り候、扨是迄逗留中日に二三度づゝ地震致し、折々山鳴気味あしく、呼れ参り候ても、小屋に泊り候時は安心致し、本家に泊候夜は兎角寢入兼、咄して居る間も油断ならず、扨々是には心配仕罷在候、○昨夜作衛門宅にて泊り候処、此家は是迄名主も勤、村にての大家に御座候、然る処此度之地震に潰残り候へ共、柱折壁落傾きたる計にて、大工大勢掛り漸二三日跡に起し迄し、昨日畳敷込ける計也、昨日は廿四日大地震の日にも当り、大家故猶以安心ならずと申、殊に昨夜はあつく候間、夜中起縁側へ出空の様子を見候処、どんどりとして空低く見え候へば、猶々気味あしく、最夫迄日々地震の前は兎角気をとぢたるやうにて、風もなく空どんどりと致し、曇りもせず晴もせず、むし暑くなりて震ひ出し候、人の話にも右様に付扨こそ今夜は油断ならずと存じ、夫より外へ出、空のやうす四方を見詰候処、其内曇りも{〓}くかゝりたり、又厚くかゝりたり、色々に勃き出し、風を起し、庭の木の葉を吹ちらし、風の勢大に強くなり候間、是では大丈夫と思ひ内へ入寐候、是迄右様の時風出候へば地震無之安心致し候、○我等暇の日数定まりし身なれば、遅く共柳新田を廿二三日頃出立致し、夫より善光寺に一両日逗留致し、二ケ寺程是非尋ねさればならぬ者有之、爰へも立寄、其上善光寺へ一両日中逗留中、地震焼失の様子をも見聞致さんと存候処、親{〓}其外親しき友人の招くもいなみがたく、かなたこなたと泊り、終に又二三日逗留いたし、最早是非なく断ていよ/\二十六日出立に定め、柳新田村へ暇乞致し、猶又我{〓}が屋敷跡を見廻りしに、潰材木迄押流し、只柳の大木のみ茂り居候へ共、兄弟何れも無事なるを悦びて去ながらいよ/\茂る柳かなと紙取出し矢立にて書付、柳にさげ帰りければ、早九郎左衛門方より迎ひ者来り、其夜も同人方へ呼れて行候、此家も我{〓}同家にて木家潰れ、土藏斗残候、前の畑に小屋掛是に住居いたし候、扨九郎左衛門いふやう、我{〓}は此度の地震にて生涯の徳を得たり、是迄余り結構過て家作諸道具{〓}も是で済ぬ彼ではならぬと物好みして、自由が足過て却て不足に思ひ候処、此度家を潰され諸道具{〓}も荒増相碎き、此さまにてもはや五十日余も小屋に住居候処、是ても済せば済み来りたり、雪降迄には普請も致す心組は致し置しが、職人手廻らず土藏に成共冬を凌ぐ積り、無理に今建候ても、晝夜此様に地震致し候ては、其内又大きく震ひ又潰るゝことも知れず、因て普請も急がず時節を待積りに候、家は潰候へ共親子六人、男女馬迄も無{〓}に逃出し、田畑も格別荒なし、飯山焼失中曽根中條の大{〓}に引くらべ候へ、家潰れ諸道具碎き候位は何にてもなし、今天地開闢と思ば不自由なる事更になし、此未家は雨露を凌ぎ、諸道具は夫々の用さへ足ればよしと思ひ、何もかも気をもまず、天道様次第と存候、此地震に逢すば、まだ世の中はいつも此様なものと心得、事が済むのすまぬと不足たら/\気をもみて其日をくらし可申に、此{〓}にて発明致し足る事の了簡出、安心に成たるは、全く地震の御蔭と存じ候と申聞候、其時我{〓}破鍋にとぢぶたせしぞ目出度けれ、これ足る事をしるの身のうへと古人の狂歌申聞候へば猶大に悦申候、友人より聞候歌二首、是は在所の友達の話、極楽へ参る心の善光寺、地獄の責に逢ふぞかなしき死にたくば尋てござれ善光寺、嘘ぢやござらぬ本多善光此外米相場百文に付白米一{〓}三合、酒一升に付百拾貮文○廿六日故郷柳新田村出立、親類共並に友達に送られ、飯山町はづれにて別れ、それより見聞荒増左之通、○フルマ村百五十軒程の所五十七軒潰、○イヱサハ十軒の内三軒潰、○フカサハ十軒潰、○ミツマタ十四軒の内十軒潰れ即死五人馬二疋死、○アカサハ十軒潰馬一疋死、○カイマ百軒程之内五拾軒程潰、○イマヰ六軒の内二軒潰、○オマカハ此処の者善光寺へ行四十五人の内三拾六人焼死、○ナンクボ山拔にて六人泥下に死す、{〓}死骸不出、○ミナミゴウ三十軒潰れ即死人九人、○カジロ二百五拾軒の内百二十軒潰れ即死二十七人、○石村百軒程の内五拾九軒潰即死十八人、○アサノ八拾軒余潰れ、○サンサイ百軒余の内八十軒潰れ即死三拾八人、右村々何れも飯山御領分にて、是迄又六七里の間往還筋計り、右の通り、其外西北山方の村々は山崩にて何々村も家人共に土中に相成候分も有之、由、其下通り千曲川辺は出水にて水損夥き由、此夜三方村往還端の茶店吉右エ門方に泊り候処、同人之咄に此辺よし村二百軒程の所山拔にて、百六拾人程土中に相成、死骸も不出、其侭捨有之候処、死骸掘出候者へ其家の家財一切被下候間掘出し徳にして掘候様、飯山候より御触御座候に付、此節毎日掘候申聞候、○廿七日三才村出立致し、往還より小半道在金箱村と申処に爲吉といふ者御座らる、此方へ相尋候処、同人は留守にて不逢候得共、其家も潰れ両親共小屋に住居いたし候、右爲吉父清八は地震之節素裸にて逃出候処、其内善光寺の大火にて此辺も畫の如くに明るくなり、地震は強、右に村此清八狂気いたし、当時は落付候へ共気拔に相成、誠に此中にて致方無之と同人妻申聞候、此村五拾軒程之処誰一人残者無之、不残つぶれ、其上又出水にて押流され、誠に目も当られぬ体に候、此隣駒沢と申村も是又同様にて、其外此辺大潰れにて、中條御代官所より厚御手当有之由、爰より一里半善光寺の方、東長池村油屋助八と申者方へ相尋候処、同人方も家藏不残潰れ、其向ふの潰残之台所に仮住居致し、家内多にて怪我人も有之、倒れ居候者も有之、又面色抔真赤に致し候の者も是あり、是全く狂気の体に相見へ候、七才の男子は即死致し候由、又是参候道端に十六才斗の娘潰家の裏にて、只一人棒を持て所々を掘返し居候間、道を問候へ共一向に荅も無之、只にこ/\と笑居候、彼も地震の節気でも{〓}候哉と被存候、此辺は善光寺在にて村々の者地震の節、気を転倒致し本性を失ひ今以正気付ざるもの夥敷有之候、中々以善光寺の地震の響と申もの、天地も崩るゝかと人々申居候、○是迄日々曇折々雨降、殊に昨夜中より大雨にて此日も折々大雨致し候間、雨止の間髪結所にて月代いたし、其節地震の様子承り候処、髪結申聞候に、地震の節他所より帰り候に、真の闇空、飯綱山の方に火の如き雲出候間、不思議に存見つめて居候処、其雲くる/\と廻り消るや否山鳴致し、{〓}に大地震に成り、大道へゆり倒され候ゆへ、側の木に取付凌ぐ内、善光寺所々より火燃出し一圓に成り、此辺も晝の如く明るく成り、地震は強くみり/\がら/\と物の倒るゝ音、又山鳴夥敷実に此せがどうなるやらんと覚え、其恐しさ御咄にはなり不申と申聞候、地震に付何か不思議なることにても有之候哉と相尋候処、されば善光寺開帳札三度迄紛失致し候、其節は誰も不心付居候得共、今にては全く如来様の御しらせならんと、何れも風聞致し候と申聞候、○十七日の晝頃、善光寺へ参り候処、又大雨にて丹波島船渡留り居候由、右に付同所に逗留之積にて夫より所々焼失の体見物仕候処、焼残り目立候分は、先本堂並山門、又大勧進其外西法寺の塔、其鐘樓堂、町は上横沢といふ所、又下町少く残、当時焼跡荒増灰片付、所々仮家出来又小屋掛にて賣買相初め候、扨地震の節如来は本堂より遥寢町の方畑中へ持出、爰にて開帳有之候得共、当時は山門内左之方小堂に造足し致し、爰に安置有之候、また山門の内石燈籠金燈籠不残破却いたし、其外敷石{〓}も所々はね返り高くなり低くなり居候、また本堂並山門は無{〓}之様に見え候へ共、所々柱喰ちがひ、本堂は不{〓}戸を〆、明き堂に致し有之、又死亡人の骨諸国より持参り、併四拾俵程御座候由、右の骨山門の右の方に埋め、其外九尺四方程少し高くなり居候、程なく爰へ常念仏堂建立の由、右之場所左之通、奉修施餓鬼会之{〓}趣者、爲横死靈魂、出{〓}受纒、焼死人遺骨納所、右は、山中市中其外遺骨取集、百ケ日より令回向之間、有縁有之輩焼香可有之者也、○扨此の日頻りさ雨降、丹波島船渡し幾日に明き候哉、{〓}計など何れも申ける、外渡場参り候処、小市の渡も此水にては渡し申間敷、殊に作場渡に付、武家方は常にも不渡、岩藏山の上水内の渡しは、水増候程淀み候間、爰は渡し可申由に付、川留にて善光寺にて空敷日を送らんより、山中の地震壊壞の処見物ながら、水門の渡しを越んと、夫より思ひ立、善光寺の上横沢といふ所に出、西方の山路へかゝり山中へ趣候処、夫より一里程登りアラキスといふ処に至り候へば、爰に西野甚十郎といふ人の住居有之、此人と戸隱しの別当と境論之公事致し候処、西野氏利方にて、多穩多分減地なし、右に付此度の地震は戸隱しの神の崇り也と風聞有之由、此処迄大谷の横手を通り候処、地震の崩れ道普請出来候得共、此程之雨天殊に此日の大雨にて又崩れ落、朝山家より善光寺へ出る馬抔通り候事不成、馬士種々世話いたし、漸越事にて甚{〓}所也、夫より又一里ほど登り候へば、六部塚といふ処あり、此時吹晴にて快晴に相成候処、此真北の方に飯綱山といふ高山続きに戸隱山遙に見え、浅間の煙立なびきて、富士の峰も見え、其外諸国之山々を見渡し、眼下に開けたる善光寺、平良川犀川千曲川の二瀬を見下し、其風景信州隨一の由、又夫より芝野へ出候処、爰に大蛇の池と唱え候池有之、其中に洲あり、是浮洲の由、其先なる沢は一里余、山奥より地震之節泥押出し、其の末の村方多く損じ候由、是より広々たる野原にて此中に戸隱山明神の石の大鳥居御座候、是は地震に倒れ臼の如く幾つにも碎け、其丸さ凡七八尺廻り可有之候、其真向はカツラ山、其下にアサヒ山といふあり、此両山は川中島合戰の節、謙信陣取候由、其外川中島向地藏峠に信玄陣取候由、扨是より此野を下り大久保といふ処の茶屋より、年若き馬士と同道にて下り候処、途中にて日暮馬の跡に付暫く闇路を下り候処、地震に割裂或は崩候処、道普請したるを雨にうたれ、深むかり致し、道は曲り/\真急に下り、其{〓}渋いふべき様無之、漸峠村を下り、麻の苧からを貰ひ松明を拵へ、是に助られて五ツ半時頃高橋村といふ処に至り、右馬士の内名主忠左衛門に泊り候、此馬士は名主の次男なるよし也、扨此処は裏山中鬼無里キナザ谷といふ処にて、高橋村は鬼無里谷筋五拾三ケ村の内也、○名主忠左衛門家内十三人暮の処、地震後庭の畑へ四間四方に板を敷、其所へ小屋を掛、前に竃を拵え、三十日程其小屋に住居、追々地震寛かに成、本家へ入候共、裏の戸を開はなし置、夜分は家内中戸口に枕をならべ、地震強き節は飛出さん用意杜置候処、漸此間戸を引寄寐候由申聞候、此家も柱折れ壁落、土藏も壞れ大痛みに候処、可也に取繕ひ候由申聞候、○此谷筋に権太郎といふ馬喰渡世の男有しが、地震の節柱にしかと抱き付一向外へ出ず、其親なるもの無理に引出さんとしければ、我は日頃人をだまして悪き馬を賣付非道の金を儲け候ゆゑ、鬼がさらひに来たるならんといひて、地震なりといへども更に得身せず、又中には魔生の者の仕業なら人と存じ、何者なりとも相手にならんと、{〓}差おつとり身がまへせし者もあり、又善光寺の旅籠屋などに居候旅客なども、地震とは気がつかず、旅籠屋の主人の謀計にて、釣天井を落し候事と思ひ、金は不残遣はすべければ、命は助けよと叫びし族もあり、兎角初めは地震と思はぬ人々多く有たりとか、○此辺は至て悪地にて、おもに麻苧作り候所なり、此忠左衛門は各筋の麻を取集め、年々江戸表へ相廻し候由、此夜合の蕎麥なりとて出し候に、其風味至て宜く、是迄ケ様のそば食し不申、信濃そばといふ名物は、此辺の蕎麥をさして申すにやと被存候、○又忠左衛門咄に、昔此飯綱山へ川中島の者心願有之致登山、廿一日絶食にて籠り候処、其間種々異変候へ共、一向に構はず居候へば、其後天狗顕れ出、汝其侭絶食にては命続くまじ、食を与へんと申されけるを、命にはかまはずと申居候処、汝の望達遣し申べく候へば、其処より麥飯様の物出らる、夫を食し千日籠り願叶ひ候よし、其処より今に麥めしやうのもの出候、是を食し候へば膚疾落候事竒妙也、飯綱山は此辺にての高山、其絶頂に御座候へは、中々容易に手に入がたし、併昨年次男登山の節、持帰り所々より無心致され、少々残り有之候迚見せ候間、夫を無心致し参候、麥を真黒に焼候様にて味もなき物に御座候、○扨廿八日忠左衛門方出立、鬼無谷川の上、川浦村の拔ケ所を見物いたし、夫より山をこし表山中に出んと、谷川の横手道一里程行候処、其筋何ケ所も谷へ崩れ落、其半ば僅一尺計の道つゞきて有之候へ共、両三日の大雨にて土湿ひ居候間、時々片足ふみ崩し候、両足ともふみ崩し候へば、土共谷川へこけ落ん体にて川は水増して其恐しき事たとへんに物なく、如何にも気味あしく、実に{〓}氷をふむ如くに候へ共、外に順路の道もなく、又向ふべき人もなければ、辛ふじて参候処、其先は尚々道崩れ落、一歩も行事不叶、是非なく又々跡へ戻り候処、年頃廿歳ばかりの婦人参候間、此先は谷崩れ落、通路出来不申やと申間候へば、其婦人のいふ様、又道が崩れたるか、毎日雨が降て道の崩るゝにも困り入候、さやうなら山を越て参るべし、私は此在所の者也、案内いたさんといふにつき、其婦人の跡につき参り候処、実に恐ろしき山々を越候に、其婦人は平地を歩くも同様にて、少しも苦になるやうす見えず平気にて越候、いかに山中の者にても余り我折れ候、我{〓}は其跡より笹に取つき木の根を便り汗を流して越し候、扨其婦人の丈夫なることいかにも感心いたし候故、何村何某の婦人なるぞと尋候へば矢張此鬼無里の内ふルサイカの法{〓}の娘也と答へ候間、若天狗といふものゝ娘にてあらんかと存候、彼女其先の道を能教へ呉候間、銭少く遣し候、扨夫より川浦迄凡一里半程も有之、其間も谷筋斗通り崩れ所も数ケ所有之、其処を越候節は念仏唱ながら越候、○川浦村より松代へ御届書之由左之通長サ二十五丁程横幅三町程、深さ三丈余水中家九軒、右湛水之中に、家根四五軒見之候、赤松代より御見分も無御座より、此先々も右様に拔落水湛候処、数ケ所有之由にて、一同に押切候、七里程谷下善光寺のツタナシと云ふ所え押出さんとて、川下より折々見届に参り候由、此所は谷の西方巖石一同に拔出落、谷川へ押埋め、其東の方の岸低き所滝に成り、通水付居たる押切体、更に無之、右水中九軒の人一人も不出由、○此川浦より手前の谷筋に古社有之、立寄暫時休居候処、老人孫を負ひ参候間、何神の社ぞと問候処、加茂明神也と答候、加茂の本社は都也、されば古へ谷へ都人の住て、かゝる神をも勧請し賜ふにや、○扨川浦拔所も見物して、夫より裏山中新町への道を承り候処、両月の大雨にて崩れかヽりの場所数ケ所崩れ落、是より山路は通路出来兼、此度は是非なく二里程戻り向山へ移り来山中へ出申候扨小高き処にて諸方へ見渡候処、山々大小に依らず、何れも崩れ御場所は赤くはげ、其処々に草木青く残り、一山として無{〓}の山は無之候、芝山は三丁五丁程も筋通り割裂、又山畑抔の土和らかなる処は、一丈二丈も段違ひになり、麓へこけ下り、又往還筋の巖石山不残崩れ尽し、其麓の人家を打碎き候処も有之、其外山路割裂或は崩れ、其所へは大木を切渡し、木の枝敷漸往來付候へ共、未其辺より新町への往来は馬通り兼候由、又道端などの家自然と土中へめり込、家根斗見へるにも有之、大石は地震にてゆり込るゝ事もあるべきに、家の自然にゆり込候事下思議にて、地震とは思はれず、山中の内泥立村妙正村妙正寺といふ寺など、本堂客殿ともに土中へ搖込候由最初我{〓}在所辺之崩れ所々目を驚し候得共、此山中にくらべて恐しき有様なり、我{〓}計らす丹波島川留にて此山中へ廻り、凡越後信濃の国境より鬼無里が間、地震嚴敷所荒増見受候に、此度之地震一番強きは此表山中と覚へ候、扨此日も折々雨降、崩れ所のぬかり道にて其{〓}渋いはんかたなく、又暮方に成候へ共、宿るべき家なく、竹生といふ所に泊り可申由にて、漸日暮其処へ至り候処、僅二三丁程の町家也爰も家並潰れて其上焼失も有之、中々相対にてはとめず、是非なく其処の名主へ相頼み、新右衛門といふ方に泊り申候、此家は町はづれ遙引込たる小高き所の新敷大家也、居宅土藏も一向いたまず不思議に覚え候、此辺は谷間少しひらけたゐ所にて、前に土尾川といふ大なる谷川あり、此谷川へも所々巖石拔落有之処、真田様より多くの人夫を掛、家よりも大なる巖を打砕、通路御付被成候由、此辺シキヨウハラカルサハ廿一軒、山拔土中にて皆潰れ、イ木リ太田十二軒土中にて皆潰、其外山拔にて人家土中に相成候村多有之候由、○廿九日竹生村出立之節、水内添迄道順、五之通書付、ナツハ村カマノヲ村橋渡りコイドウニレキより水内の渡し、右之通づゝ参候処、其間に山路幾筋も有之、聞人もなく半道程もゆき、山崩れにて通路ならざる処も又跡へ戻り、彼是道ふみ迷ひ甚{〓}渋いたし候処、其内左右への別れ路に、水内村御橋流失に付、同村平組船渡是より通路仕候弘化四年四月水内村右之通立札有之、是にて安堵致し、其方へ趣候処、谷の横手半丁程の間崩落行事不叶、無是非其山によじ登り、漸打越て先の路へ出、夫より馬の脊の如き小高き山上といふ処へ出候はば、西の方へ打開けたる山間の一里水に浸して有之、是は山中新町にて四月十三日岩倉山押切之節、松代御出役之野元氏佐々木氏改し処、三百人余流失の由、其東の方に岩倉山も見え、夫より半道程山を下り候へば、犀川水内の渡にて両三日の雨に別して水増し、其直二丁程川下に岩倉山有之、其手前にも崩残りの小山あり、堰留場押切候へ共、川底の巖石いまだ取れ切不申故、其所滝の様に相成居候て湖の如くにて、渡場之所は猶更打ひらけ、水淀み流れ川の様には相成不申、此渡し場の下にサミツ村十四軒、又水内平村二軒未水中に成居候由、扨水内の橋は此渡し場より七八丁水上にて谷に懸り、常には橋之上にて水かすかに見ゆる程の高き橋のよし、此橋は十八間にして前後より中之処、七間づゝ反十四間反橋に相成居候由、然る処湛水にうかみ岩倉山押切候節流失いたし、其橋杭など今渡し場の山際に留有之、さて岩倉山之堰留場末押ざる前の湛水之様子、此渡場へ下り申候、山の半腹木の枝抔に泥付たる五もく引かヽり、其向山にも泥のかわかざる辺り有之、天にて押り候へば水の深さ凡八九丈程も可有之、其川上三十五ケ所水中に相成居候よし、左も可有事と覚申候、此犀川は岩倉山の鼻を廻り、北東へ流れ、此辺は山と山との鼻を突合せたる狹き処にて、其由手前とも巖石大崩れに相成、岩倉山は北東と西南之方両方へ崩れ落、山の前後にて堰留、当時山の真中残り、上に松二三本有之、又其上も両方より山崩れて堰三ケ所にて〆切候間、其水上追々充満いたし候処、四月十三日南風、大嵐にて荒上留押切候へ共、岩倉山之処は巖石にて〆切候間、爰にて留るべくと存候処、川上の水勢にて一同に押切、凡水高さ五六丈程にて、押出し雰煙の如くになりて其音夥しく致し、此水鼻に当るもの何一つ残るもの無之押流し候、尤此堰留場何村押切候哉{〓}計と、川下の者心得のために松代様にも種々御手当被成、押切候時の相図の鳴し物など御用意被成置候へ共、右水音にて一向役に立不申由、岩倉山の麓永井村喜右衛門道連にて其時之様子咄候、右の出水にて押流候其辺の農家十六軒へ、松代より米廿俵金三分づゝ被下候、私も其内へ加り居候、御地頭様之御手当は{〓}有候へ共、地震にては家財は残り候に、右の水にては家財迄も押流され、其上田も五拾俵取程之所、僅五六俵程残り、跡ハ水荒致し候、此岩倉山は私共の敵に候と同人申聞候、右様荒水致し押出候ても、此辺は巖石之山合計流候故、谷間の少しひらけたる田畑などは損じ可申候へ共、別に水にひらき無之、是より二里半程川下善光寺丹島山里地に至り水ひらき、松代の城裏迄も水突懸、夫より越後新写之海辺里数凡何程有之哉、其川筋畑農家之損し、人馬の溺死{〓}計覚候、○此度越後ハライチバ村、夫よりタノクチ其次イシカハ村を過、又善光寺丹波島向ふシノゝヰ追分へ出候処、未丹波島舟留めの由、又矢代の渡も留り居候へ共、舟頭に頼み百文遣し小舟に乘、漸流渡にあやうく越、其夜は矢代宿ふる屋新次郎方へ泊り候、此夜宿にての咄に、篠井追分の柳屋といふ旅籠屋いて旅人八十人程泊、地震の節荒増即死いたし、死骸不残土中に埋候へ共、旅人持來候呂は不残其家の前にさらし置候処、尾州様御家中十一人善光寺へ廻り一人も不帰とて、尾州より迎の者二人参り、道中筋宿帳にて相{〓}候処、善光寺の方へ廻り候様子に相分り候へ共其外知れざる間、定めて善光寺にて焼死候は人と迎ひのものも、善光寺の有様をみて帰り候節、篠井追分へ参り候処、見覚之分持有之、夫より吟味いたし候処、侍十一人泊り候由、宿帳にて相知れ候間多くの入用を掛、死骸を数多掘出し改め、十一人を近所の寺人頼み火葬に致し、骨をつぼに入て持帰り候由、是{〓}は此度の横死の内にては仕合也と皆々話し申候、善光寺近辺地震に付、米穀賣買無之に付、甚騒ケ敷相成、食物{〓}見舞に持歩候へば、途中にて奪ひ取られ辨当迄も取られ候由、右に付善光寺大勧進より、松代様、高田様両御方へ米十俵づゝ御無心被成、夫を百文に二{〓}づゝに施同様に御拂に成夫にて漸穩に相成候由、○此度の地震時節能候間、家潰れ候者も小屋にても凌よく、又山里にても四方植付等不残出来候様子、尤山崩れ又は水損にて荒候場所は其侭御座候へ共、手入可相成丈は地所繕ひ、農人は耕作をはげみ、飯山善光寺抔の場所も不残焼失いたし候得共、最早仮家は小屋にて賣買いたし、親を失ひ子に別れかゝる大{〓}に逢とても、銘々の本柱を不失職分致出精家を修る事、偏に御領私領とも御地頭の御手当届かせられ候故と、実に聖代の御代にもまさり候事と有がたく奉存候、○六月朔日矢代宿出立、坂本駅戸倉駅辺に至り候へば、潰れ家も無之、其夜小諸御城下本陣上田宇源治方に泊り、二日松井田駅糸田武左衛門方に泊り、三日本庄駅諸井に泊り、四日鴻巣塚本屋へ泊り、五日江戸へ入、三番町の宅へ着仕候、弘化四年未年六月芦澤不朽
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| 出典 | 増訂大日本地震史料 第3巻 |
| ページ | 908 |
| 備考 | 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。 |
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