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項目 内容
ID J0300954
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1830/08/19
和暦 文政十三年七月二日
綱文 天保元年七月二日(西暦一八三〇、八、一九、)京都及ビ隣國地大ニ震フ、
書名 〔地震考〕
本文
[未校訂]文政十三庚寅年七月二日申の時許に、大地震ひ出で、夥敷ゆり動しければ、洛中の土藏築地抔大にいたか、潰し家居も有、土藏の潰れしは数多ありて、築地高塀などは大方倒れ、怪我せし人も数多也、昔はありと聞けど、近く都の土地に、かく烈しきはなかりければ、人々驚き恐れて、みな/\家を走り出で、大路に敷もの鋪、假の宿りを何くれといとなみ、二三里の程は家の内に寐る人なく或は大寺の境内に移り、或は洛外の川原移り(に脱カ)、西なる野辺集(に脱カ)て衣を明しける、かくて三日四日過ても、猶其名残の小さき震ひ時々ありて、初は晝夜に二十度も有しが、次第しづ(に脱カ)まりて八度ばかり、三四度に成るも有、然れども既に廿日あまりを経ぬれは({〓}カ)、猶折々少々づ{〓}の震ひもやまで、皆人々のまどひ恐る{〓}事也、世の諺に地震ははじめきびしく、大風は中程つよく、雷は未ほど甚しといへる事をもて、初のほどの大震はなきこと{〓}さとしぬれど、猶婦女子小児のたぐひは、いか{〓}とあんじわづらいて、いかにや/\と尋ねとふ人のさわなれば、{〓}記きしるして、大震の後に震ありて止ざるためしを拳て、人を安くせんと在にしるし侍る、上古より地震のありし事、国央に見へたる限りは、類聚国史一百七十一の巻、災異の部に拳て詳也、三代実録、仁和三年秋七月二日癸酉、夜地震、中略六日丁酉、虹降東宮、其尾竟天、虹入内藏寮、中略是夜地震、中略卅日辛丑、申時地大震動、経歴数剋一、震猶不止、天皇出仁壽殿、御紫宸殿南庭、命大藏省立七大幄二爲御在所、諸司舍屋、及東西京盧舍、往々顛覆、壓殺者衆、臥有失神頓死者、亥時亦震三度、五畿内七道諸国、同日大震、官舍多損、海潮漲陸、溺死者不可勝計一、中略八月四日乙巳、地震五度、是日、達智門上有気、如煙非煙、如虹非虹、飛上属天、或人見之、皆曰是羽蟻アリ也、中略十二日癸丑、鷺二集朝堂院白虎樓、豊楽院栖霞樓上、陰陽寮占曰、當愼失火之事、十三日早寅、地震、有鷺集豊樂院南門鵄尾上、十四日乙卯、子時地震、十五日丙辰、未時有鷺集豊殿ノ東鵄尾上下略、餘動屡発、至於歳終、かく数々ある中にも、皆初は大震して後小動は止ざれども、初のごとき大震はなし、我友広島氏なる人、諸国にて大地震に四度逢たり、皆其国に滯留して始末を能く知れり、小動は久しけれ共、初のごときは一度もなしと申されき、是現在の人にて證とするに足れり、地震之説、地震の徴、震せんとする時、夜間に地に孔数々出来て、細き壤を噴出して、田鼠{〓}ウ{〓}{〓}チごとし、是土龍{〓}{〓}ロモチなどの{〓}上るの類ならん歟、又老農野に耕す時に、煙を生ずる如きを見て、將に農せ(震カ)んとするを知ると、又井の水俄に{〓}り湧も、亦震の徴也、以上、天女考要、又世に言伝ふは、雲の近くなるは地震の徴也と、是雲にはあらず、気の上升(昇)するにて、煙のごとく雲のごとく見ゆる也、地震の和名をナヰと云、和漢三才図会にはナヘと有、ナヰの仮名然るべからず歟、季鷹翁の説に、十八魚にて、ヰハユリの約りたるにて、ナユリといふ事ならん歟、魚の尾鰭を動かすごとく動搖する形容して名目とせるか、ナヰフルとは重言のやうなれども、ナヰは名目と成てなる辺(へしカ)くと、是をもおもへば誠に小児の俗説なれども、大地の下に大なる鯰が居るといふも、昔{〓}言傳(ヘカ)てたる俗言にや、又建久九年の暦の表紙に、地震の{〓}とて其形を畫き、日本六十六州の名を記したるもの有、俗説なるべけれども、既に六七百年前{〓}かた({〓}カ)る事もあれば、鯰の説も何れの書にか據あらんか、佛説には龍の所爲ともいへり、古代の説は、大やうかくのごときもの成べし、佐渡国には、今も常にナヰフルン云ならはせり、地震といへば通ぜず、古言の辺鄙に残る事見るべし、地震に付て其應徴の事など、漢書、晋書の天文志などには、其応色は(々カ)記しあれども、唐書の天文志よりは、変を記しつ{〓}応を記さず、是春秋の意に基く也、今太平の御代、何の応か是あらん、地震即災異にして、外に応の有べき事なし、人々心を安んじて各の務を怠る事なかれ、文政十三年寅七月廿一日思齊堂主人誌此地震考一册は、予が{師}溝山先生の考る所にして、此頃童{〓}婦女或は病者など、さま/\の虚説にまどひて恐れおの{〓}き、又今に小動も止ず、此後大震もあらんかと心も安からざれば、歴代のためしを挙て、其まどひを解き心を安んぜんとす、京{師}は上古{〓}大震も稀也、室暦元年の大震{〓}、今年まで星霜八十年を経れば、知る人少し、此災異に係りて命を損じ、疵をかうむる人数多也、時の災異に係りて命を損じ、疵をかうむる人数多也、時の災難とはいへども、亦免れがたしともいふべからず、常に地震多き国は、倉庫家建も其心を用ひ、人も平日に心得たれば、大震といへども圧死すくなし、和漢の歴代に記せし地裂、山崩、土陥、島出、濤起等は、皆辺(遍カ)等也、阿含経、智度論抔さま/\に説、大地皆動くやうに聞しり(がカ)、左にはあらず、初のいへるごとく震は各処各気各動也、予天経或間に據て、一図をまうけて是を明す、○図へ略セリ、地球之図、地球一週九萬里、是を唐土の一里六町として、日本一里三十六町に算すれば、一週一萬五千里となる、然る時は地心より地上まで、凡貮千五百里也、今度の地震方二百里と見る時は、僅に図する所の小図の中に当れり、是を以て震動する所の徴少ならず、地球広大なる事をおもひはかるべし、愚案ずるに、天地の中、造化皆本末有、本とは根本にして心なり、心とは震動する所の至て猛烈なる所をさす、其心より四方へ散じて漸く柔緩なるを末とす、然ば東より搖ぎ來るにあらず、動來る(西より脱カ)にあらず、其心より搖初て四方に至り、其限りは段々微動にて畢るならん、今度震動する所、京{師}を心として、近国に亘り、末、東武南紀北越西四国中国に抵る、又京{師}の中にては、西北の方心なりしや、其時東山にて此地震に遇し人、先西山何となく気色升て、忽市中土煙を立て搖來り、初て地震なる事を知れりと也、又地震に徴ある事、現在見し所、当六月廿五日日輪西山に沒する、其色血のごとし、同七月四日沒する、其色亦赤し、和漢合運に云、寛文二年壬寅三月六日{〓}廿日迄、日朝夕如血、月亦同、五月朔日地震、五條石橋落、朽木谷崩、土民死、至七月末止と出たり、広島氏日譚に、享和三年十一月、諸用ありて、佐渡の国小木ヲキと云湊に滯留せしは同十五日の朝なりしが、同宿の船が{〓}りせし船頭と共に日和を見んとて、近辺なるべし丘へ出しに、船頭の曰く、今日の天気は誠にあやしげ也、四方濛々として雲山の腰にたれ、山半腹より上は峰あらはれたり、雨とも見えず、風になるとも覚えず、我れ年來の此如天気を見ずと大にあやしむ、此時広島氏曰、是は雲のたるるにあらず、地気の上升(昇)するならむ、予幼年の時父に聞る事有、如此は地震の徴也と、片時も猶豫有べからずと、急ぎ旅宿の(にカ)帰り、主に其由を告、此地後は山、前は海にして甚危し、又來るとも暫時外にのがれんと、人をして荷物など先へ送らせ、そこ/\に支度して立出ぬ、道の程四里許も來らんとおもひしが、山中にて果して大地震せり、地は浪のうつごとく搖て、大木など枝みな地に折ふしまろび、漸にのがれて去りぬ、この時小木の湊は山崩、堂塔は倒れ、{〓}漲て舍屋皆海に入、大なる巖{〓}(海カ){〓}涌出たり、夫より毎日小動して、翌年六月に漸々止りたりとなん、其後囘国金山にいたりし時、去る地震には定て穴も潰れ、人も損ぜしにやと問しに、をわなく、皆云、此地むかし{〓}地震は以前にしりぬ、去る地震も三日以前に其徴を知りて、皆穴に木入用意せし故、一人も怪我なしと也、其徴はいかにして知る哉と同しに、地震せんとする前は、穴の中地気上升して、傍なる人もたがひに腰より上は唯濛々として不見、是を地震の徴とすと云り、按に常に地中に入る者は、地気を能知る、島は空中にありて能上升の気を知る、今度地震せんとする時、数千の鷺、一度に飛を見る、又或人云、六月廿七日の朝、末日も出ぬ先に、虹丑寅の間立(に脱カ)を見る、虹は日に向ひて立は常也、いづれも常にあらざるは徴とやいはん、又はじめにいへる地震の和名ナヰソル、李鷹翁ナハ魚也といふ説によりて、古図を得て茲に出す、図ハ略ス、此図、暦のはじめに出して、次に建久九年つちのえむま、の暦、凡三百六十五ケ日、と有、餘は是を略す、伊豆国郡珂(賀茂カ)郡珂郡松崎村○松崎村は、賀茂郡ニアリ、の寺院、ふるき唐紙の中出る、(より脱カ)摺巻の暦也とぞ、
出典 増訂大日本地震史料 第3巻
ページ 344
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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