Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0300137
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/02/10
和暦 寛政四年一月十八日
綱文 寛政四年一月十八日(西暦一七九二、二、一〇、)肥前國島原温泉嶽破裂ス、是レヨリ先キ前年ノ冬屢々地震ヲ發シ、山崩ヲ生ジタルガ一月十八日ニ至リ、温泉嶽ノ中ナル普賢山鳴動ヲ始メ、新タニ火口ヲ生ジ、水蒸氣・土石ヲ抛出シマタ多量ノ泥ヲ噴出セリ、二月四日ニハ普賢山ノ東方穴迫ト稱スル谷間鳴動シ、六日ヨリ噴煙ヲ始メ、九日頃ニ至リテ其ノ勢ヒ愈々甚シ、二十九日ニハ蜂ノ窪ト稱スル地ヨリ噴煙、翌閏二月三日ニ至リ再ビ其ノ附近ヨリ噴煙セリ、三月一日ヨリ地震・鳴動強ク、山腹ヨリ岩石・砂利ヲ崩落シタルガ、一日夜半ヨリ翌二日朝マデ地震最モ烈シク、三日ニ及ビテ漸ク間遠クナリタリ、九日ニハ前山ノ南面崩落シ、四月一日ニ至リ裂シキ地震二回アリ、前山ノ南面、山頂ヨリ麓マデ一時ニ崩壊シ、崩土海ニ奔下シテ津浪ヲ起シ、タメニ島原半島ニテ田畑荒廢ニ歸セシモノ三百八十餘町、死者九千七百四十五人、負傷者七百七人、牛馬ノ斃死四百九十六頭ニ及ベリ、肥後ノ海岸モ津浪ノ襲フ所トナリ、死者飽田郡二千百餘人、宇土・玉名兩郡ニテ四千人アリ、天草諸島ニ於テモ死者三百四十三人ヲ出セリ、
書名 *〔北窻瑣談〕○橘南谿谿著
本文
[未校訂]一寛政壬子の春、肥前國雲仙嶽の崩れの前、數日空
中に帆かけ船多く往來するを、人々見たりしとぞ、
是嶽より登り出る氣に其近邊の海上の船の影うつれ
るなるべし、往年松前の津浪の前には、空中に佛神
の姿飛行せるを人々見たりしも、蝦夷地の人畜うつ
れるなるべし
一寛政四年壬子二月肥前國雲仙嶽大に火燃て、數日
地震夥しかりし、同四月朔日の夜戌刻過、雲仙嶽の
下の前山といへるが、島原城の上に當りたる山二ツ
に破れ火出て、同時に島原海中よりも火燃出、津浪
山のごとく湧上り來り、島原城下の町々、其外島原
領の村々、佐賀領の南海に臨める村々、肥後國の西
面に臨める村々、天草島の海邊にある民屋、皆同時
に没溺し、島原にて死亡の人凡三萬餘、肥後にても
二萬餘人といへり、その外諸國皆それに準じて夥し
き死亡なり、其夜海中に小き島七八十も出現したり
とぞ、昨年霜月頃より雲仙嶽鳴動して、春に別りま
す/\甚しく、夜分には地中より火の玉出、或は火
柱などの立たる事毎度なりとぞ、二三月頃には九州
惣體地震甚しく、肥前は別して強く、一日の間に四
十六度震ひし事を有ける、四月朔日大破の時節は島
原の地甚熟し、草履にては歩行なりがたく有しが、
頓て山破れ火出しとぞ、其前に島原近邊の草木、一
夜の壁に何れの木を俄に花咲みだれ、人皆見物に出
し程なりき、
出典 増訂大日本地震史料 第3巻
ページ 100
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒