[未校訂]寛政四年壬子二月、肥前國雲仙嶽、大に火燃て數
日地震夥しかりし、同四月朔日の夜戌刻過、雲仙嶽
の下の前山といへるが、島原城の上に當りたる山、
二ツに破れ、火出で、同時に島原海中よりも火燃出、
津浪、山のごとく湧上り來り、島原城下の町々、其
外島原領の村々、佐嘉領の南海に臨める村々、肥後
國の西面に臨める村々、天草島の海濱にある民屋、
皆同時に沒溺し、島原にて死亡の人、凡三萬餘、肥
後にても二萬餘人といへり、其外諸國、皆それに準
じて、夥しき死亡なり、其夜、海中に小き島七八十
も出現したりとぞ、去年霜月頃ゟ、雲仙嶽鳴動して、
春に至り、ます/\甚しく、夜分には地中より火の
玉出、或は火柱ほどの立たる事、毎度なりとぞ、二
三月頃には、九州總體地震甚しく、肥前は別して強
く、一日の間に四十六度震ひし事も有ける、四月朔
日大破の時節は、島原の地甚熱し、草履にては歩行
なりがたく有しが、頓て山崩れ、火出しとぞ、其前
に島原近邊の草木、一夜の間に何れの木も、俄に花
咲みだれ、人皆見物に出し程なりき、安永己亥の冬
十月朔日より、薩摩國櫻島山大に燃て、十月十日に
は、伊勢、尾張、志摩、參河邊迄も、其灰降たり、
其後天明年中に、信州淺間嶽大に燃、又今度之雲仙
嶽なり、櫻島山の時は、大隅國の海中に新島七ツ出
現せり、余も親しく見及びたり、海中津浪は、今度
のごとく甚しからず、但大燃の後数日して、山上よ
り火水溺(漲ヵ)り下り、其水筋の民家皆流れ、死亡の甚だ
多かりし、淺間山大燃の後も、数日して、山中より
泥水大に溺(漲ヵ)り出で、利根川を押下り、其末江戸迄も
水勢〓たり、其水筋數十里の間、人民の死亡、數萬
人に及べり、淺間山の燃る音、京都迄聞えたり、唐
土にても山崩れ川涸る〻は、凶事と云ならはしぬる
に、海中新に島々を湧出せる事は、國の増たりとも
言ん歟、其年、雲仙嶽破れて後は、地下の欝陽大に
發達せし故にや、夏に至り、氣候甚だ順にして、五
穀の豊熟、近年に見ざる程なり、氣候和順なる故に
や、脚氣、中暑、下痢等の病無く、人民健固にて、
例の夏に異なり、されば吉凶禍福は、相随ふものに
て、九州の死亡程は、天下にて有餘有けるにや、造
化の手なみ、不可思議のものなり、
寛政壬子の春、肥前の國雲仙嶽の崩れの前數日、空
中に帆かけ船多く往來するを、人々見たりしとぞ、
是嶽より登り出る氣に、其近邊の海上の船の影うつ
れるなるべし、往年松前の津浪の前には、空中に佛
神の姿飛行せるを、人々見たりしも、蝦夷地の人畜
うつれるなるべし、
雲仙嶽もえて山崩れ、或は地震甚しく、或は山鳴り
などして、變異しきりなりし折節、島原城下に一人
の盲人有けるが、殊に恐れて、我は盲人なれば、此
上大變起りて、天地覆らんときにも、人なみ/\に
は逃去る事叶ふまじければとて、杖、草履抔、晝夜
身をはなたず有しが、其後、津浪町々を漂沒せし時、
かの座頭、すはやとて北をさして逃出、終に長崎迄
二三十里にげたりしが、島原中の人多く溺れ死しけ
るに、彼座頭のみ、無事に逃のびたりしは、常々一
途に心がけ、深く恐れ居候故なりけらし、