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項目 内容
ID J0202198
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1783/08/05
和暦 天明三年七月八日
綱文 天明三年七月八日(西暦一七八三、八、五、)浅間山大噴火ヲナス、是シヨリ先キ四月九日ヨリ活動ヲ開始シ、屡〓鳴動・爆發ヲ繰返シタルガ、六月二十九日ヨリ八其ノ活動一段ト勢力ヲ加ヘ、七月五日ヨリ愈、大噴火トナリ、七日ニハ降灰・降砂甚シク、武藏深谷邊ニテモ一時暗夜ノ如クナレリ、七日ニ至リ一大鳴響ト共ニ大泥流ノ奪下アリ、北上州方面ニ流下シテ吾妻川ヲ閉塞シ、續イテ決潰シテ吾妻川ヨリ利根川ニ奔注シ、沿岸ノ諸村落ヲ蘯盡シテ、死者千五十一人、流失家屋千〇六十一戸ノ多キニ達シタルガ、就中吾妻郡鎌原村ノ如キハ全村埋没シ、人口五百九十七人ノ中四百六十六人惨死セリ、泥流ノ溢出ニ續イテ夥シキ溶岩ヲ噴出シ、コレマタ北方ニ向ツテ流下セリ、鬼押出ト稱スルモノ即チコレナリ、
書名 〔農論〕
本文
[未校訂]天明三卯年凶作の前年寅の冬より氣候いつもと大きにたがひ、十二月甚暖にて菜種の花なと咲きそろひ又は笋を生し、陽氣春に以て三月比の如し、且時ならざる雷度々あり、極月にかくあることは前代未聞の天災たりとて人々おそれけり、さて明れば卯の年となりぬ、此春は猶更暖ならんとおもひしに冬とは引かはりて寒氣甚しく、其上雨のふる日多くして晴天は稀なり、されとも夏に及びしに麥作はいつもとさまでの違ひもなくとりけり、かくて五月になりぬれば暑氣の節たれともさはなくて田植の時にいたれども餘寒去らす人皆綿入を着て火にあたるほどなれば、此寒さにては作物不熟ならんと察せられしかば穀物の百段諸國一同大きにあがれり、○中略
かくて七月になりしかば雨にまじりて砂をふらし或は風につれて白き毛の如きもの此あたりまで飛び來れり、又大地のふるふ音して夜も晝も聞へけり、これはいかなる事やらん不思議なりとて人々打ちよりいひあへり、是信濃國淺間山の燒け出しにて其火勢のとゞろく音遠くも響きわたりて聞へしにそありける、かくて山の上の煙は空をおほひ電光おびたゝしく鳴りはためき其あたり二三里がほどは闇となりて晝夜をわかたずありしかば、灯火を用ひつゝけて常にあかしを消すことあたはず、それよりして泥土をふらし或は火の石を飛しつゝ其震動雷電次第/\にいやまさりしかば、皆人肝を消し魂飛ひて夢の如し、されども爲方なくて日を送りしこと七日七夜に及びつひには淺間の高山裂け崩れて大水出しかば、火の石泥土を流しゝこと夥し、其勢のおそろしさたとへていはん様もなく言語にたへし事ともなり、其水すぢの村々里々其数すへて五十三ケ村一時がほどに押流せり、其家數八千七百八十三軒人は三千七十八人を溺らし殺せり、其外牛馬の類は數をしらずとなり、抑此出水の色は赤きこと血の如く且其泥水たる水とはいへ共大熱湯故それに觸れし者は忽に煮燒されて悉く亡ひうせり、されば死を免かるべきやうとては絶てなかりし事なり、
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 732
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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