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項目 内容
ID J0201750
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1763/01/29
和暦 宝暦十二年十二月十六日
綱文 十二月十六日(西暦一七六三、一、二九、)ニ至リ地大ニ震ヒ、被害多ク、津浪ヲ伴ヘリ、其後マタ屡〓震フ、津輕ハ地強ク震ヒ、北海道函館モマタ地震及ビ津浪アリ、
書名 〔小山内某手記〕
本文
[未校訂]宝暦十一年の頃よりして並戸水の乾涸せらるゝ〓あり、春になれ共雉子は鳴く声なく、晝夜鳥○鳥カの騷ぐを度々なりしも、人民何の故たるを知る者なく、只不思議の考のみなりける、仝十二年十一月頃となりて小地震度々あり、同月廿二日となりて晝夜地震の度を加へ、十二月に至り止む時なし、仝月十六日申の中刻に満月南より出でゝ例なき程大に、光は紅色を帯びて光線なし、申の下刻に至て少く光を發つ、同酉の中刻大地震、山は鳴動し川は漲り人家悉く破損して所々地裂け、仝夜より翌曉迄大小十九度に及べりと、其後打續き益甚しく、人民皆家に起臥する者なく、戸板を地上に敷きて居れり、仝十三年正月に至れども尚やまず、同月十七日の夜の如きは月光なく錆たる銅の如く十九日に至り地震せり、仝廿七日午の中刻最大の地震して、城内の土手並郭内通夥しく損じ崩れ、城下貴賤の家屋大破せり、其後小地震やむ時なく、二月朔日に至り又強震ありける、此時湊は津浪寄せ來り人民騷ぐ〓甚しく、食を安せざるに至る、勿論起臥も出來ぬと、藩主此惨状を御覧ありて、諸所神社佛閣に命じて國家安全の祈祷をなさしむ其當時氣候は風雨なく長閑に薄く〓む日は必ず地震せりと、二月末地震ありし方より日々西南風吹きて止まず、斬くして三月より四月に亘る、同月廿日西より大風吹き地震に殘れる家屋を倒せる少なからず、後五月上旬より雨降る、連月晴れては降り、降りては晴れ、車軸を流し勝にて、六月に至れども止まず、同八日雷鳴して暴雨甚しく、仝廿六日より急な風に轉じてより、七月三日迄日夜大風雨にて寒冷九月の候の如し、其日巳の上刻余程強き地震あり、仝四日より六日迄晴天となりて殘暑甚しく、八月に至ても雨天多かりしと、斬く雨天續きにも関せず道路乾きて泥なく、少しの日光を見れば草履を用ふるに宜しき程なり、此頃も鳥○鳥か鳴き甚噪く、同十四日風雨あり、仝十五日曇天東風夜に入りて大雨となる、同十六日朝に至り暴風雨烈しく往來も止まる程なり、巳の刻より洪水四方に起り水面より高き〓二丈余、城下の上は白山の方より出水して上組町禪源寺畷手山仗治町辺の者は長者山に逃れ、殊に沢里村賣市村の辺は堤防破れて鳴動城下の水田海の如く轉覆して各所に小山を作り、又千仭の〓を作り、亦他の馬別川と新井田川の如きは殊に出水甚しく、下組町下より一面水となり、紛洙の白波を漂はせ、見るも恐ろしかりし勢なり、湊新町の者は少しく逞々せば命の保つべき様なかりしも、幸に早く知り上の山佐比代辺に脱れたり、山根通り即ち種市山の下辺は山崩れ所々小川の水増して人家牛馬の別なく押流され、畑の沒せしもの其数知れず、故に大小の橋數多く落流れ、亦道路は山崩れの爲め塞がり二三日間互の音信通ぜず、同十六日より十三○八カ日迄二夜三日の祈祷あり、十九日に至りて所々の注進あり、遺家より人馬の流失山崩れより落橋等皆知るを得たりとかや、此故に五穀一粒も收むる能はず、父子共に棲息するを得ず、流離浪々たるの有樣如何ならん、寛文四年八戸分國以來百有余年間如此惨状未たあるべからず、以上は唯老人の談に因りて一般を申記せる所、尚ほ背に汗するの思あり、若し此苦境に逢ひたる者如何なる心中ならん、身の毛も慄つ程恐れて怖るべき哉、
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 413
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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