西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。
項目 | 内容 |
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ID | J0200457 |
西暦(綱文) (グレゴリオ暦) |
1707/10/28 |
和暦 | 宝永四年十月四日 |
綱文 | 宝永四年十月四日(西暦一七〇七、一〇、二八、)五畿七道ニ亘リ地大ニ震ヒ、続イテ九州ノ南東部ヨリ伊豆ニ至ルマデノ沿海ノ地ハ悉ク津浪ノ襲フ所トナリ、其ノ餘勢大阪湾、播磨、長門、周防ニ達シ、大阪ニ非常ナル災害ヲ生ジタリ、震災地全部ヲ通ジ潰家二万九千戸、死者四千九百人ニ及ベリ、マタ土佐ニテハ地形変動ヲ生ジタル處アリ、 |
書名 | 〔西遊記〕 |
本文 |
[未校訂]余熊野海辺の長島といふ所に遊びしに、佛光寺といふ褌宗の寺あり、其寺に石碑あり、碑面に津浪流死塔と題せり、裏に手跡も俗様にて、文も俗に聞えやすく、宝永四年丁亥年十月四日未刻大地震して、津浪よせ來り、長島の町家近在皆々潮溢れ、流死のものおびだゞし、以後大地震の時は、其心得して、山上へも迯登るべき様との文なり、いと実体にて、殊勝のものなり、誠に此碑の如きは、後世を救ふべき仁慈有益の碑といふべしとなり、漢文にては益少かりぬべし、諸国にて碑をも多くみつれども、長島の碑の如きはめづらしく、いと殊勝に覚えし、其津浪の事、其あたりにてたづねしに、あまりふるき事にてもなければ、語り傳へて今におそれあへり、それより段々浦々にて尋る、浪よせたりし浦もあり、又さのみ高くのぼり來らざる湊もあり、同じ南面の熊野の浦にて、かく違あるはいかなるゆゑぞと其地理を考ふるに、幅廣く常々は船のかゝりあしく、しかと湊ともいひがたきほどの所は、其の時津浪高からず、人家流るしほどの事はあらぎりしとなり、されば海幅狹くふかく入こみて、つね/\船がゝりよく、風のおそれもなしといふべき湊は、別して大地震の時は用心すべき事にこそ、○中略すべて津浪は一亘沖のかたへ俄に潮引き去りて後、其返カヘシ大に登り來るものとぞ、宝永の津なみも、一たん海水ことの外に引去り、つね/\見えざりつる海底の岩などまであらはれぬれば、海辺のもの皆々あな珍らしと見物に出たるに、しばらくの間に沖より大浪よせ來りて、逃べく間もなく流れうせぬるもの多かりしといへり、
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出典 | 増訂大日本地震史料 第2巻 |
ページ | 209 |
備考 | 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。 |
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)
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