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項目 内容
ID J0200399
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(西暦一七〇七、一〇、二八、)五畿七道ニ亘リ地大ニ震ヒ、続イテ九州ノ南東部ヨリ伊豆ニ至ルマデノ沿海ノ地ハ悉ク津浪ノ襲フ所トナリ、其ノ餘勢大阪湾、播磨、長門、周防ニ達シ、大阪ニ非常ナル災害ヲ生ジタリ、震災地全部ヲ通ジ潰家二万九千戸、死者四千九百人ニ及ベリ、マタ土佐ニテハ地形変動ヲ生ジタル處アリ、
書名 〔雨窓茶話〕
本文
[未校訂]宝永四年丁亥冬十月四日廣湯浅にありしこと人々いひ傳ふといへども、其詳なることを聞くことを得ざりしが、〓ろ廣栗山氏に其記録ありて其詳説を見ることを得たり、栗山氏の老人長之右衞門と云は予妻の祖父にと、予も又識るに及べり、其老人の慈母廿五歳の時にて有しと云、某記云、
其日は好天気にて小六月とも可請日和にてありしがにわかに大地震して地も破裂に至り、家なども倒るゝ程にて、誰言ふとなく高浪あがるとく、老幼家物を所縁の方へあづくる人も多かりき、
既に午の刻に至り、すわ高浪と立騒ぎ、湊辺の者は鳥の森通りを走り西の丁辺は八幡の段へ走りたりしが、最早川筋を浪上りで段へ上ること不叶、その比安楽寺は建立あつて三四年なれば人々たしかに思ひ此寺へ逃入り堂上に浪と避けること夥し、
一番浪よりは二番浪高し、舒々として來るを以て、善走るものは浪を負と免るゝを得べし、其去ること至てはげしく一番と二番との間に鳥の森より
八幡の段へ走り行とて、鳥井下にて引浪に巻取られし宥有しと云、二番浪の高かりしにて、安楽寺の堂鐘樓も引倒され夥き人を失せり、廣の地面凸なれは酒屋藤助の家は床迄浪上り、栗山氏は簀より三尺高く上りたり、浪は谷の渕迄行と云、
湯浅は廣より軽し、然れども新屋敷浜町には死人あり、中町大阪屋三右衞門の宅はあつら石迄浪上りしなり、川通りは別所村迄上り家三軒流失す、栖原村は湯浅より軽し、少し破損あり、田村は何事もなし西廣村は餘ほど浪上り流失の家あり、死人なし、唐尾も西廣と同じ、白木小浦同じ、三番浪は小さく物を害せず
其夜は恙なき家も男子なき宅は其まゝ逃去り、しまりもせず、見廻りの人なければ、盗賊に家財を失もの多しと云、家流亡して足を託するところなきものは、公より段の丁へ假長屋を建させ寓住せしめ、一人に麥四合づゝ十月十九日より賜ふ、旦繰車なども賜り綛糸造る、廣西の波戸(朱註、波戸長さ百二十間横脚十三間)は此高波より、四年前官より築成したまる、西の州崎へ新畑など地闢きせし翌年右の浪にて渡戸亦壞崩せり、其後土人発願して寛政年間再築す、今の波戸是なり、向ひ波戸は文化年間に成る廣橋本與兵衞の家は高浪に流れず、栗山氏の家も此を免る、今の大厦に比すれば桂礎甚だ孱弱なれども其頃の家にては大厦にてありしと見ゆ、然れば其時流亡せし家は皆小屋にて柱礎も竪からず、地震にて先つ残ふ家も多かりしなり、廣村八百五十戸字田村トモ其内七百戸流亡、百五十戸破損、土藏九十箇、其内七十箇流亡、廿箇破損、船十二艘流失、橋三所流失、其餘所亡者、官倉二戸、米二石四斗四升貸麥二十五石、制札代官所其此ハ今ノ〓〓寺ノ境内ナリ、公ノ別宮アリシコヘ代官所モ其マヽナリ、郡寄合所家藏トモ別宮ノ前往還ノ路傍ニアリ郡中諸帳面諸手形悉失之、〓大破、死者男女百九十二人十月十四日マテシレタルモノ、又男女百人何地ノ人トモ知ガタキモノ札ヲ建合葬ス、其内二年バカリ、女金五両ト銀百十三文目懷ニシテ死シタルアリ、庄屋ト肝煮ノアツカリトナル、牛一疋
湯浅村五百六十三戸、其内二百九十二戸流亡、五十五戸破壞、二百十六戸破損、土藏六十六箇、其内三十箇流亡、四箇クヅル、三十二箇破損、船七十六艘流亡、網十七張流失、
官倉二戸破損藏納廿七石七斗ヌレル貸麥十七石五斗ヌレル
制札三ケ所、橘三所流失、死者男女四十一人、外二十二人何地ノ人トモ知レガタキ者北ノ恵美須社神主トモ流亡、南ノ惠美須社無恙南ノ惠美須今ハ浜ニアレドモ此時ハ今モトエビスト云所ニアリタルナリ、此所ハ浜ヨリ隔リ地モ高シ故ニ害ナシ、
廣湯浅官ヨリ粥ヲ賜ヒタル者凡八百人、小屋入リ二百九十六人廣村二百四十三人湯浅村
西廣村六十八戸、其内四十九戸流亡、十九戸破壊、船一艘流亡、官倉流亡貸麥ハ石四斗牛二匹流死、死者男女十一人コレハ何地ノ人トモ知レサルモノ西廣唐尾ヘ打アガリタルナリ、
廣尾村二十三戸、其内十九戸流亡、三戸破壞、土藏二箇、船一網二張、宮倉流亡、貸麥三石五斗、
三保川衣奈浦杯ハ高浪ハカリニテ破損ナシ
和田村家一戸流亡、
白木小浦一戸破壊、船一、橋一流亡、
別所村三戸流亡何地ノ者トモ不知女一人流寄ル、土葬ニシテ札ヲ立、
栖原村十七戸、二戸流亡、五戸破壞、十戸破損、廣村其比ハ関東の〓穢繁昌して民家千餘戸ありしとなり、此年九月家並の印形帳に八百九十六戸としるしたり、其外に村役人十戸他処よりの寓居杯凡千戸はありしなり、
廣村の戸数減じたるは、全くこの高浪に挙族流死したるもの多きなり、先年池永久五郎話に廣付に五六輩夜話の折から、高浪の昔かたり出たるに、久五郎衆にむかひ、其変に人多く失ひたりといへども、誰が先祖の死したりと云ふことも未聞れば、今言程の事にてもなかりしならんと云ければ、坐上に其浪に溺死したる子孫三人迄ありしとぞ、是一話にても多く流死せしを推知すべし、
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 180
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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