[未校訂]宝永四年十月初四末の上刻大地震、畿内東関西海及ひ南紀北越一時に震動して、山家穿崩して潮海沸騰す、高岸谷となり深谷陵に変す、あるひは河流壅渇してあらぬ所に満溢し、あるひは山路隔絶して岩石陌に轉ふ、摂州兵庫以東殊に鳴動して、大阪の内家倒れ橋崩れ、圧死する者甚し、かゝるに申の時にや洪涛俄に寄來りて船を覆し浜を破りしかは、亦是に没溺せし人多し、
大阪市井の内北組死人百廿八人、顛倒の家二百三十六ケ所、落橋十六ケ所、天満組死人五十三人、顛倒の家百六十二ケ所・落橋六ケ所、其他安治川新地堂島辺木津堀江の末汐にとられし家療死の男女又かそふるにい
とまあらすとかや、
堺の在家全きもなく、夷島くつれて海潮となる、尻ケ崎の城震ひ落、屋倉大破す、是より南は紀州若山もまた地震強かりしとかや、能登浦高汐にて民家顛倒、役人多く失にき、志州鳥羽勢州上社等も同し、
大湊松坂安濃津四日市場等の海浜は更にもいはす、庄野亀山なんとも家倒れ山くつれ、尾州熱田の公館顛倒し、民家かたかき破れし海辺盡く損せざるはなし、中に州吉田二川白須賀或家倒れ崩れ人圧て死す、或は汐來て湊を破る、今切の関屋も跡なくなりし、甚しきは袋井岡部江尻吉原富士川も河上の山くつれふさかりて、二日はかりは水たえを行人かちわたりせしとなん、箱根山過て東はさる甚しきまとひもなかりけれども、よのつねにははるかまさりて家かたふき侍るも多かりしとかや、武城は五日の朝ほらけに社また強くゆりはへりしと傳へ聞はへりし、下總安房上野下野あたりも四五日大地震と聞ゆ、西は中國薩摩かたまて同しきさまなりと街談すれとも、香敷事はいまた聞はへらす、我尾州の如き知多郡の海辺強く震待りし中に、大野常滑なんとは家もおほがたなくなりし、南野村の廣からぬさへ寺三所家五十八軒顛倒し、海東郡津島村の里にて、家百十餘倒れゆかみ、堤破れし、府下はさして家倒れる程にはなかりしかと、牆壁なんと二三ならせは全きもなく城樓も多くは損しける、濃州大垣城傾き門倒れける、板取辺の横山とかやも崩れ侍りしとも、江州彦根膳所なんとも大方破れけるよし、誠に庄時の間全國同じさまに聞えけるも、稀有の変事也、いにしへもかかる事ありや、凡そ地震は陽伏陰下見迫干陰故不能升、以至地動と文にも侍るにや、震の字もと雷の象にして天に鳴響く物をいへり、古人地下鳴動するもひとつ物にして地震といへり、地道は安靜なるに動くは変異なり、故に聖人春秋にも筆したまへり、文公の九年襄公の十九年又二十三年〓公の三年等より我国は史の闕文にや地震の事尤泰天皇五年七月十四日推古帝の七年四月廿九日の大地震以來を記し侍るにこそ見ぬいにしへは如何侍りけん、只今度こそ諸国なへて震ひ侍る事倒しなきすかたなれは、亦もや大にゆる事侍りなんと市井の男女恐れあへりけるに、或老者云、むかしの事はしりも侍らす聞にし、天正十三年十月廿九日慶長元年閏七月五日大地震年をこえてやまさりしも、初のやうに大ゆりはなかりしとなり、我知り侍るは慶安元年四月廿二日六月廿日同二年六月廿日寛文二年五月二日の地震およひ近き元禄十六年十一月廿二日東國の大地震なんとも再ひ強き事なかりし、凡そ陽勢発散して後亦なとか初のことく震ひ侍るへき、いまた地泥鎮り侍らさる故少しつゝは名残ある事、古今珍らしからすさのみ恐れ玉ふなといひしに、またかたへなる人云、夫はさる事なから、應永丗二年六月十七日大地震ゆりて同七月一日六日十三日及ひ廿六日おなしさまなる大地震せしとかや、天正十三年の地震も亦十一月廿六日廿八日廿九日大ゆりせし由、皇年代記の補なんとに記し侍りぬれば、今はたゆらしともいひにくき事にこそ侍れとつふやきし、洟州大阪地震之惣改
一棟数六百三軒
一圧死三千六百廿人
一落橋廿二ケ所
一竈数一万百軒
一高汐溺死一万二千餘人
一破船大小六百五十餘艘紀州熊野地震改
一長島地震民家顛倒以後高汐にて屋舎不残漂流禅寺一宇炭燒小屋三軒残る男女百餘人沒死内七十余人死骸出る、
一尾鷲町屋千餘軒流男女不残漂死、
一別本村屋倒れたる計り
一桂村家五六軒人共不残漂流
一志路村家三十餘軒人共流亡
一すは村家八十餘軒流内半分計り倒れなから残る
一木ノ村家六百軒共流亡
一大泊家二十餘軒人共流亡
一新宮城大破崩町家民家大概顛倒男女死人七百三十人
右之所四日の晩より六日迄汐満野尻村に至りて船にて通路有之、