[未校訂]金曜日○西暦一六一一年十二月二日即ち我が十月二十八日我等は越喜来
Oguinayの村に着きたり、又一の入江を有すれども用をなさず、此処に着く前、住民は男も亦女も村を捨てゝ山に逃げゆくを見たり。是まで他の村々に於ては、住民我等を見んため海岸に出でしが故に、我等は之を異とし、我等より遁れんとするものと考へ、待つべしと呼びしが、忽ち其原因は此地に於て一時間継続せし大地震のため、海水は一ピカ○三メートル八十九サンナ余の高さをなして其堺を超え、異常なる力を以て流出し、村を浸し家及び藁の山は水上を流れ、甚しき混乱を生じたり。海水は此間に三回進退し、土人は其財産を救ふ能はず、又多数の人命を失ひたり、此海岸の水難により、多数の人溺死し財産を失ひたる事は後に之を述ぶべし、此事は午後五時に起りしが、我等は其時海上に在りて激動を感じ、又波涛会流して、我等は海中に呑まるべしと考へたり。我等に追隨せし舟ニ艘は沖にて海波に襲はれ沈没せり。神陛下は我等を此難より救ひ給ひしが、事終りて我等は村に着き、免かれたる家に於て厚遇を受けたり。土曜日○三日我等は約ハレグワ進み行きて、他の入江に着きしが、海の方面打開きたるが故に用をなさず、夜は根白cenbazuにて過せしが、同村は高地に在り、海水之に達せざりき、○中略日曜日○四日我等は海路船に依りて引還し、前記の諸港湾の位置を測定し、今泉に到りて夜を過したり、同所に於ては、前記の海水漲溢の為め村の家は殆ど皆流され、五十余人溺死したることを発見せり、之が為め我等は宿泊する所を得る能はず、日本人等は妻子及び財産を失ひて悲嘆せり、○中略此日○十八日我等は中村Nacamuraの、市に於て夜を過したり、其領主は大膳殿Daygen―dono○相馬大膳大夫利胤なり、○中略彼は其城門に於て快く司令官を迎へ、城は破損し再築中なるを以て城内に迎へざるを謝し、同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害を受けたりと言ひ、○中略火曜日○一六一二年一月三日我等は浦川への旅程に就き、翌一月四日水曜日同所に着き、我国民の安全にして、前記海水の漲溢は僅に其徴ありしも、此地に達せざりしを見て、司令官は大なる満足を感じたり、