一、西外面村当村は代々城北也(中略)然ルニ天正十三年酉冬十一月廿九日勢尾大地震ニ而当城の殿門矢倉塀等悉破壊せしや(後略)
一、又元亀天正文禄之頃も今の城郭の如くと思ひしか故にあらす抑当城にかきらす昔は多ハ塁かけ上の城郭のミなりされハ当城も昔ハ天守有矢倉殿門多くありと云は今の治天より推高言ならハしたる偽説也昔戦国にて悠々たる事更々なし況や殿守といふハ楠正成時節より多ハ是を造立ス増て当城においてをや夫当城は慶長以来の城主連々に修補造立志給ふ先本丸多門天正の地震に動潰し漸石垣少し残りしを菅沼定芳君達 上聞則許諾有て終に多門取建て再営し給ふ也(中略)同年黒門前の辰巳矢倉良尚君再営せしめ給ふ此矢倉も天正の地震に動崩しなり後ハ塀を掛まハし基はかり残る也(後略)
一、又当村汰り込四ツ屋畑大工町と云伝ふ所有北動込と云ハ北島新道の方を云也中動込と云ハ稲荷社地#一町余り西の方田圃を云也助右動込といふハ南の堤落圦之内の方をいふや、助右衛門といふ百姓、の家汰込し故ナリ、是三ケ所共に天正三酉年之冬大地震ニ動込し所也
一、又当村に砂宮神と云あり(中略)桑名領内川の神と云は同神なり当所の木曽の流水うつまく川筋故天正大地震の春此ニ祀る也然ば遠在の古社也
一、当村地蔵堂有(中略)諺云伝ふ永禄元亀の頃までハ善美を尽して巌堂##として繁栄せしに天酉の地震に殿堂こと/\く破壊せしむ此におひて農家漸く草宇を営み霜雪を覆ふ其後寛文年中に地蔵を再興し堂も又新に作之此時正観音を安置す
一、又当村に真言宗の寺跡と云有則下坂手村坂手山大通院と云真言宗の寺ありとかや誠に近在の大寺也是建保年中の開基にして永禄年中に及び三百五十年来の春秋を経て後本願寺宗に帰依改派す是に於て最勝寺と号す天正地震の後下坂手を去って尾州海西郡立田村に住す又後に尾州を去り勢陽桑名の市中萱町に住居して年を経月を越て繁栄す(後略)
一、(前略)抑当観音は其開基不詳然れども天正の始め秀吉の命によって徳永左馬濃州高須の城主此所を検地すること有り此節徳永氏一宇を再営し又田畑を少々除之其証文今に長禅寺住持の手に有り且天正十三乙酉年大地震す此に於て幾程なく当寺退転し俗僧共に破壊の地と成る纔かの一宇杉江村に残る事年久し(後略)