藤井寺市史編さん委員会編、H9・3・31 藤井寺市発行、
また明応の兵火で本堂と塔のみかろうじて残存した剛琳寺は、永正七年八月の大地震により倒壊したので、同年十一月に勧進帳が作成され、聖が募金を始めた。翌年二月、剛琳寺では勧進帳を一代の碩学三条西実隆に清書してもらいたいと参議阿野季綱を通じて依頼し、二月十一日実隆は快諾し、十四日には清書を仕上げて季綱の許(もと)につかわしている(『実隆公記』)。
永正の地震では古市の西琳寺の塔婆も倒壊したらしく、守護畠山尚順は同寺に対して大工や人足の提供を約している(『道明寺天満宮文書』)。また河内常光寺も、永正八年(一五一〇)六月、震災復旧のため勧進帳を作成し、募金に乗り出した。このように尚順の守護就任直後あいついで諸社寺の復興の動きがみられる事実は、漸くこの地域の戦国争乱が小康状態に入ったことを示すものである。
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しかしこの「一国乱」の場合は、本堂一宇・塔一基が残った。「諸檀那の合力」を期待する勧進、あるいは勧進の準備が、すでにこの段階から始まっていたが、その最中の永正七年(一五一〇)八月八日暁、葛井寺は今度は大地震に襲われ、「一寺滅亡」というありさまとなった。同八年六月一日付の河内常光寺勧進状によれば、八尾の常光寺も、この大地震によって「堂舎悉破」という状態となっていた。葛井寺の場合、幸いに本尊千手観音は難を免れたが、伽藍はおそらく壊滅的な状態となったのであろう。固有名詞こそ知られないが、勧進沙門(聖)某が介在し、問題の勧進状が作成され、広く貴賎の浄財が募られ始めたのは、以上のような事情のもとであった。「一刹伽藍の退転は、衆生掎化の方便なり。誠に嘆きの中の悦びなり」という本文中の逆説は、他の寺社の勧進に際しても、繰り返し語られることがあった。