宗祇老人、年比の草庵も物憂きにや、みやこの外のあらましせし年の春の初めの発句、
身や今年都を余所の春霞
その秋の暮、越路の空に赴き、このたび帰る山の名をだに思はずして、越後の国に知る便りを求め、二年ばかり送られぬと聞て、文亀初の年六月の末、駿河の国より一歩をすゝめ、足柄山を越え、富士の嶺を北に見て、伊豆の海、沖の小島に寄る浪、小余緩の磯を伝ひ、鎌倉を一見せしに、右大将家のそのかみ、又九代の栄へもたゞ目の前の心地して、鶴が岡の渚の松、雪の下の甍はげに石清水にもたちまさるらんとぞ覚侍る。山/\のたゝずまい、谷/\の隅/\、いはゞ筆の海も底見えつべし。こゝに八九年がこのかた、山の内、扇の谷、鉾楯のこと出で来て、凡八ヶ国、二方に別れて、道行人もたやすからずとは聞えしかど、此方彼方知るつてありて、武蔵野をも分過ぎ、上野を経て、長月朔日比に越後の国府に至りぬ。
宗祇見参に入て年月隔たりぬる事などうち語らひ、都へのあらましし侍る祈りしも、鄙の長路の積りにや、身に患ふ事ありて、日数になりぬ、やう/\神無月廿日あまりにをこたりて、さらばなど思ひたちぬるほどに、雪風烈しくなれば、長浜の浪もおぼつかなく、「有乳山もいとゞしからん」と言ふ人ありて、かたのやまに旅宿を定め、春をのみ待事にして明かし暮らすに、大雪降ふりて日ごろ積りぬ。此国の人だに、「かゝる雪には会はず」と侘びあへるに、まして耐がたくて、ある人のもとに、
思ひやれ年月馴るゝ人もまだ会はずと憂ふ雪の宿りを
かくて、師走の十日、巳刻ばかりに、地震大にして、まことに地にふり返すにやと覚ゆる事、日に幾度といふ数を知らず、五日六日うち続きぬ。人民多く失せ、家々転び倒れにしかば、旅宿だにさだかならぬに、又思はぬ宿りをもとめて、年も暮ぬ。
※本史料の作者は連歌師の宗長。宗長は越後府中に滞在中の宗祇を訪れた。長浜は上越市長浜。九月一日、宗長が駿河から府中に滞在中に宗祇を訪ねてきた。その宗長は、十二月十日、府中で地震にあった。