明応七年戊午八月廿五日大地震大津浪之事
宝永四年迄二百十年に相成
安政元年迄三百五拾七年に相成
大塩屋といひしは家数百八十軒余も有し所なるを、右八月廿五日の大地震後の大津浪に相流れたるよしにて、明神より東に有し人家四五軒残りたる所追大湊へ引越たるよしなり、
右大塩屋の旧地は高羽(註、鳥羽か)郷領の東、大湊の西なり、今野河原といふ、太田八太夫扣の松原の辺は其流れ跡の内と見えたり
右太田八太夫先租重満扣に見えたり、
今も塩屋社の東北に三四軒ある人家を大塩屋組といふなり、右明神より東にありし人家四五軒相残りしとあるは此処ならんかゝ慥には知りがたし、
明暦三年丁酉地震津浪調もの
宝永四年丁亥十月四日大地震大津浪之事
享保十三年迄廿弐年に相成
安政元年迄百四十八年に相成
右明応七年相流たる大塩屋の旧地、追々に開発して田畑に相成有之の所、右十月四日の津浪に不残相流れ荒地と相成、其上、中に川一筋出来たり、其川、細き川にて汐干の節は歩渡りせし程なるを、宮川出水毎に川幅広く相成、終に大河と相成たるよしなり、今の西の河是なるべし、
右太田八太夫先租重満の扣に見えたり、