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項目 内容
ID H00010357
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1802/12/09
和暦 享和二年十一月十五日
綱文 1802年佐渡小木地震(享和二年十一月十五日)
書名 〔地震大辺之事〕
本文
((表紙)「 享和二年          田野浦村
地震大辺之事
戌霜月十五日)戌霜月十六日ニ御神明講に仁左衛門重吉あたり十五日ニ口持致候間各々様方ヲよび酒をつきのむ時大なへゆりはしめ其酒を置にげ申候其酒を皆ゆりこぼし家之前へはだしではしりでれバ人をゆりたをし又をきれバゆりたをし十八日ニ御神明講致 享和二年みづのへ戌霜月十五日ニおいて日和宜敷御座(候)而風ハ内相ニ吹十五日の朝之四つ時ニ壱ばんのなへ(ゆ)湯りはじめ二番なへは少しちふさし三番の地震はひるの九つ時ニ(ゆ)湯り(ママ)藤ふとし其なへ(ゆ)湯るより直ニ海の塩ハ五六尺斗おきへ引取もとのいそべより拾弐三間斗海が浜ニ成つなみがくると被申候得共つなみハ差不申夫より前ニハ塩の月ひ有ひらせより指塩が一ばんのなへより三番のなへニ(方々)法房の家をゆりつぶし山をゆりこわし十五日の晩ハ川より西の人ハ立野坂七兵衛殿小麦畑ニをり其下のにを取場ニをり同御寺ニもおり河より東の人ハ老共子供ハ御宮へ登り家にをる人ハ門をおよほり様々村の内ニ三四軒斗火をたきをり暮し同十六日の晩ハ大雨ふり十七日十八日雪ふり殊の外大風吹難儀致廿日廿一日が大切と皆御営有之俵物遣ひ道具御宮へおい揚げ寺へはこび安兵衛殿江託十六日より廿一日迄置廿一日の朝家へ取入廿一日の晩より家々ニ火を立おりくらし十五日より少しのなへハ毎日毎晩(ゆ)湯り皆不残村々山ニ小屋を掛ケをり赤泊つなみ指十五日の大地震に小木町を(ゆ)湯りつぶし立町田町残り御公儀様の郷蔵残り百姓共番ニ余本町ハ火(を)おあまし出火ニをよび難儀いたし十一月十五日より閏正月迄(いろり)ゆるりのはたに水おそばめゆるとハ火をけす様ニして暮シ段々なへニ村ゆり有沢根之方ハ塩常ニ不替正月二日ニ余程のなへゆり同六日の晩ニ余程なへ(ゆ)湯り少しのなへハ度々(毎)前日(毎)前晩ゆり大な江ニ(方々)法房のいへ(を)おゆりかたけ道ニひゞが入山ニひびが入畑のいたみも有之其時かしまの神様の御(ママ)福両有之と被申毎年十一月十五日を鹿島の神様の御ゑん日として御酒お立やすみ御真言をくり申候と大願を掛ケ申候あたりのいたみ江積ハ家の後の山(を)おあんじ田野浦へ馬をいこし江積のせどニひびが入長吉市重郎与次兵衛長三郎がせと田野浦重左衛門おきのさきつへ重吉下山つへ木流与兵衛ほし草場つへ伊兵衛畑けのくろつへ田野浦の立岩と申岩有候得共其なへニいたみ申候小木町ニハ人の痛衆三十人斗りいたみ有之海之塩の引様ハ先少しのとこが七八十間より(ママ・間カ)百門のよもおきへ海が浜ニ成小木の浜大石浜地田の間百五十間より弐百間もをき江塩引取申候大石の三十三間蔵お(ゆ)湯りつぶし冬の間ニ立手申候正月廿七日の晩ニゆり閏正月十九日ニゆり二月六日ゆり同八日ゆり二月十三日の晩ニ余程のなへゆりなへハ毎晩毎日度々ゆり同廿八日ニゆりなへハをもに南の方からゆり西をきの方からもゆり三月二十一日ニ(ゆ)湯り三月二日ニゆり戌霜月十五日よりゆるとハ御ねんぶつを申戌十一月十五日の大なへニ板屋のやねをゆりはくり石を(ゆ)湯りをとしゆる間はいつでもゆす\/と心がいたし家の内がいつでもゆるぐ様ニ思ひしをの引様(地カ)知先のはなの方より下の塩壱尺斗り引渋手より八幡の方ハ塩常ニ不替三月四日ニゆり六日ニゆり見崎之間より赤泊迄海を(ゆ)湯り揚ゲ申候而塩か引三月七日ニ余程のなへゆり同九日ニ同所十三日ニもゆり戌霜月廿日廿一日が大切と被申夫より廿七日廿八日が大切と申候二月十五日が大事と申し又三月十五日が大切と申候小比叡山大門より上が大いたみ小比(之カ)元山くりを立大門より上ハ不残(ゆ)湯りつぶし見崎ハ宿根木小藤田がいたみ三月十八日の晩ニゆり同廿三日朝ゆり亥四月四日ニゆり八日(ゆ)湯り同十日ゆり金北山之山下ハしをも常ニ不替同十五日ニゆり十八日ニ同所廿一日ニ余程のなへゆり五月も度々ゆり其節中ぼん下ぼんの余の切替と御思召有之申候戌霜月十五日より(いカ)□らいもすきものうゆり其(後)のちはなりが付てゆり村の様子白木の(者)物ハ池野平へ登り江積の(者)物ハ宮へ登り木流し人も宮へ登り深浦の(者)物ハ犬神へ行村々山ニ小屋を立をり羽茂知物のさいもつなみがくると被申皆何方共ニ津浪を安事家のまへニ船をつなぎ上口をふさぎ石がきをつやし浜ニひびが入寺の前ニ江積田野浦の馬をつなぎ村の内ニ仁左衛門方ニ火をたき皆(害)より孫左衛門重吉火をたき十六日の晩から平左衛門火をたき十八日より吉三郎火をたきをりくらし小木湊亥五月十八日より掘始人足遣ひ六月十九日より人足拾弐人宛五日遣ひ又七月朔日より同五日迄四十人遣ひ六月十九日より廿三日迄六十人使ひ人足前ハ相渡七月朔日より五日ハ八人御公儀様より御出し賃銭ハ百弐拾四文宛御出し被遊渡ハ弐百五十文宛ニ相渡申候大地震の時ハそくからどべを吹出し畑けの麦うねをゆりつぶしはかわらの仏様をゆりたをし御寺神仏様もてき御寺の坊様ハ観音様ヲかゝへ立野坂江登り十五日のなへニ畑の土をゆりかため其のちの年ハ海にかひりがなき海の前のいろにいもりがをよぎ戌霜月十五日より四五日ハ毎日毎晩(脛巾)はばきヲあて草鞋はき暮し六月廿九日のひる余程のなへゆり七月六日ニ同所なへ余程ふとし同九日ニ同所十一月十六日より名主所之書物ニ昼夜ニ番ヲ付(閏)みつのへ戌年より四百年以前崎ニこのよの事があつたと被申候小木湊掘人足拾人宛亥七月十九日より廿三日迄五日掛り同三日渡し二日勤六月廿九日のなへ余程ふとし亀之脇へ少し津浪指申候七月廿五日のひるよほどのなへゆり八月三日ひる前に同所同五日ニ同所八月六日より五日の間人足拾人宛掛り其節御江戸表より銭都合壱万七千貫□たといふ御うわさ有之赤泊〓を掘り人足遣ひ可申候 御公儀様より出銭壱人ニ付海人足ハ百四拾八文岡人足ハ百弐拾四文ニ相究り亥八月十九日より廿四日迄十人宛使ひ四人宛十日つかい亥八月廿九日ニ天文方の役人三人廻り縄を致申候
九月朔日ニなへ二つゆり九月廿一日ニ同所十月朔日の晩ニ同所三日ニゆり亥霜月六日の晩ニゆり同七日同所亥十一月十四日のひる余程のなへ二つゆり其地震ニまことにおどろき入十五日の一(年)生季ヲ殊之外安事同十四日の晩より十五日迄(祈)喜念御祈祷いたし申候十五日を相のけ十二月十三日ニゆり海之様子ハ地震より前ハながてのとうし猟船ニ四人乗りて二丁櫓ニかいを付通り候得共其なゑより三つのとうしあせ申候其地震之節ハ海の塩か引皆いろがほせ候而小魚沢山ひらひ申候前度ハ海のいろニあまもと申ものがはえ候得共其もは無御座候其もをとき前ハ麦のこやしにいたし申候其なゑよりいろがほせ麦ニ掛け不申候其な江より前ハ浪が揚り石がきをいため家の前になみがあがり其なへよりこのかた浪ハ揚り不申候沢崎(〓カ)湊間ぶしんいたし御多屋のいたみも有之亥六月八日ニ御奉行鈴木新吉様御江戸へ御出国之節沢崎ニ御陣屋有之候時地震故水がきれ申候深浦犬神より人足ニ而水を舟ニ積参り可申候大なへより田地之水がきれ水口替所々より田地が畑ニ成申候子正月二日ニゆり同四日ニ同所同五日の晩ニ同所六日ニもゆり九日二三つ(ゆ)湯り同廿五日ニ同所同廿六日ニ同所廿九日ニ同所毎日同所子二月二日ニ(ゆ)湯り小木之痛(方々)法房の痛ニ付(職)喰人の賃(銭)〓高直ニ相成申候前ハ六拾五文此間ハ百文より七拾八文八拾文ニ相成申候所々より亥年より鹿島の神様之御堂ヲ立申候子二月廿七日の八つ時地震一つゆり殊之外ふとし文化元年子四月十六日より小木湊三味(線)泉堀人足三人宛十六日より廿日迄五日懸り子六月四日の晩の四つ時四つ(ゆ)湯り壱つはふとし家の前へ出てさわぎ同八日の晩ニも四つゆり同二十二日のひるゆり子十一月廿六日同所丑正月朔日同所子六月四日の晩のなへニ他国ハ羽前荘内秋田大痛夫より前ハ佐渡ばかり其後度々なへハ(ゆ)湯り申候
常陸国鹿島郡鹿島大明神御(縁)円日六日
ゆるぐともよもやぬけまいか(ママ)のめ石
かしまの神のあらんかぎりハ
三尺物のこやし米分有之候ものをゆりこ(ぼ)もし一時も
ゆす\/といたし
出典 ひずみ集中帯プロジェクト【古地震・津波等の史資料データベース】
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