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項目 内容
ID H00010095
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 1751年越後高田地震(寛延四年四月二十六日)
書名 〔与次右衛門胆煎日記〕○新潟県
本文
宝暦元年(一七五一)四月二十五日、本荘藩の荘屋与惣兵衛は旅行中、越後地震にあい、その実況を見聞して帰り本荘町の奉行所に報告した文書の写しが与次右衛門文書に記されている。その要旨を述べる。
一寛延四年(宝暦元年と改元)四月二十五日夜八ツ時分(午前二時)よりゆれ出し、三日間往来止る。
一上越後の前岩山三里程海へゆれ出す。
一高田町家数八、〇〇〇軒余潰れ、通り丁九カ所より出火、六丁ばかり焼失、死人数知れず。
一今町半分位潰れ、死人四十人余りあり、村々は八割の潰れという。私共黒井に泊り中二日往来とまる。二十八日黒井を出立す。
一高田御城廻り残らず潰れ、長岡は(やぐら)櫓ばかり潰れ八崎前山抜け出し往来止る。
一二十七日寺泊り昼八ツ時(午後二時)出火し三十七、八軒焼失す。
右の通り京都を出足し秋田へ同行者(筆者註―名不詳)と共に下り昨晩向屋津右衛門所に一宿し話す。たしかなる事を聞き帰ったので、余り不思議につきお知らせ申しあげる。以上
五月六日 本荘荘屋与惣右衛門より
町奉行所宛
出典 ひずみ集中帯プロジェクト【古地震・津波等の史資料データベース】
ページ
備考
都道府県 新潟
市区町村

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